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司教様説教
 …冒頭録音できず…

1枚だけ残っています。母親というのは不思議です。何でも残すんですね,みんなが捨てるときに…これは母親の本能でしょう,すばらしいですね。この御絵を選びました。
 これはイエズス様が司祭と平和の接吻をしているところでしょうか。「私はもうあなたを奴隷と言わない,しもべと言わない,私の兄弟」とおっしゃった,その場面ですね。私はこの御絵が非常に気に入っております。それが,私は,ある意味においては司祭としての本当の姿だと思います。イエズス様にしっかりと抱き留められているというのは,これが私の力であります。そして感謝します。教会の中で,司祭は,司祭であります。キリスト様から離れて司祭はありません。

 パパ様はたびたび,特に年に一度司祭に向けて非常に信心深いそのメッセージをお送りになります。それは復活祭の3日前の聖木曜日に当てて贈られるお言葉であります。この聖木曜日は司祭の日とも呼ばれるからです。最後の晩餐でイエズス様は弟子達を御自分の代理者として司祭としておたてになりました。「私はあなたを任命する」という言葉があり,「私はあなた達を派遣する」とおっしゃいました。私はこの言葉をしっかりと受け止めてこようと努力をいたしました。私はいつも主キリストにいだかれて歩き,そして教会とともに歩いたつもりであります。パパ様は今年のその聖木曜日のメッセージのお言葉の中で司祭は一つの神秘だと言います。つまりそれは神の慈しみを現す特別の存在であるとおっしゃっているようであります。つまり,神様がどんなに慈しみ深い方であるか,哀れみ深い方であるかを主キリストを通してお現しになりましたが,同時にまた,イエズス様は弟子達を特に選んで御自分と同じ使命,つまり天の御父の慈しみを現す者として派遣されました。これをパパ様は「司祭それは慈しみの神秘だ」とおっしゃったのだと思います。
 司祭はなんのためでしょう,たくさんの言葉があります,たくさんのことを言うことが出来ますが,特に「司祭とはなんですか」といわれたら,司祭はみんな答えるでしょう。「それは神様のあふれるほどの慈しみを優しさを愛を人々に与える人」それはしるしになる,そのしるしを見せること,イエズス様はそれを十字架と復活の御業を通してそれをお現しになりましたが,司祭はそのように自分の毎日の司牧者としての仕事の中でそれを現すことを唯一の目標として生きて参ります。
 司祭は神の慈しみの神秘を現すのです。私達はそのために,司祭はみなさまと一緒にあるいは少し違った動きを持って主の福音の言葉を黙想いたしますが,パパ様はその中で一つの言葉を,同じ事をおっしゃっているのですが,引用されました。「天の御父が哀れみ深いようにあなた達も哀れみ深い者であれ」というみ言葉があります。そして,と同時に,だからというのでしょうか,今度はマタイの福音書に「天の御父が完全な方でいらっしゃるようにあなた達も完全な者になりなさい。」私は,私達は何回も読みました,読んだつもりです。しかし,これを実行することはもちろんこれは難しいことです。この神様の哀れみ深いお姿,そこに私達が全くとけ込むと言うことはこれは神秘であり,これは人間の力を超えています。これが司祭です。ですから「完全になるように努めなさい」と主は強くおっしゃったのだと思います。私はこの御絵を見るたびに,あぁこういう事なんだなと思いました。イエズス様の神秘を「私は現さなければならない」と今おっしゃっているのだと言うことを,ささやくようにしてイエズス様から聞いたように思います。
 さぁ,私が50年間そのように生きてきたかどうかそれは神様にまかせましょう。たくさんのこともあります。おもしろいこともあり,かなしいこともあり,つらいこともあり,それはみなさまと全く同じです。喜びのない人生はありません。しかし苦しみのない人生も全く考えられません。よろこびがあり,希望があり,しかし不安があり,疑いもあります。これは同じです。すべての人がこの二つの間を行き来するのだと思いますが,しかし,みなさまもそうであるように私達は信仰を持っている。ですからイエズス様と一緒にいる限り私はまっすぐ,もちろん少しは曲がるかもしれませんが,歩いていけるのだという,なんか一種の保証みたいな「だいじょうぶよ」というお言葉が耳に聞こえてくるように感じます。
 この50年間の間にいただいた神様からのお恵みを感謝します。今日,はからずも,パパ様から,パパ様のサインが入ったお手紙を「親書」といわれるものをいただきました。私は本当かなと思って,ちょっとめがねをずらして見ましたけども,私のこの50年間の中で一番うれしい感激的な出来事でありました。そしてはっきりこの手紙の中に言われているように,これは「あなたが牧者として信者のために働く,信者とともにいるということそれを祝福するものだ」ということであります。ですからこの親書は私のためであると同時に,これはみなさんと一緒であるということ,これはみなさまと私は一緒ですから,私のこの喜び,光栄といいましょうか,それは私達全共同体,高松教区全体に与えられた神様からのそして教皇様からのお祝いの言葉だと思います。
 今私はいろいろと思い出すことや,言いたいことがいっぱい。が,これ言ったらもう3時間ぐらいになるだろうと思います。もうやめましょう。しかし私はみなさまから支えられて,みなさまがあって初めて私が生きておられたということを改めてここでもう一度申し上げたいと思うのです。あの人から,あのひとたちから,ああいう風に助けられたと言うことを私は全部覚えております。一つのみなさまの言葉,それが私を助ける,助けてくれました。みなさんが,「司教様祈ってますよ」と言ったこの言葉がなんと強いことか,もうほんとに奮い立つような言葉なんです。どうか,私のために祈ってください。そして私のために祈りこの教会という大きなキリスト様の共同体のために私がもっと力を込めて働くことが出来るように支えていただきたいと思います。
 みなさまに改めて感謝し,この金祝のためにいろいろと心を遣ってくださったみなさまのお優しい志,そしてご奉仕に対してここで感謝申し上げます。
 ところでですね,12月の8日に3人の助祭が誕生して,今ここに2人来ています。やっぱりこの若い世代をみなさんに見ていただきたいと思います。1人は今日よそにいってますが,彼はマレーシア教区の司祭になるために,もう決まりました。だから除外すると言うんじゃありませんよ。偶然ながら2人イグナチオとそしてフランシスコハビエルですね。今日聖書を朗読したのがハビエル,スペインのサラマンカの出身です。どうか,この若い二人がいつか50周年を迎えますように。…誰も生きていないでしょうね。もちろん長生きすることが一番良いことじゃないんですけども。神様がおっしゃったとおりに,生きている限りみなさまに奉仕をする司祭として出発して,私達の若い世代が跡を継いでくれることを私は非常にうれしく思います。