戻る

溝部司教様着座式(2004.7.19)の説教,あいさつ等

説教(梅村昌弘司教) 
 着座式にあたって,少しまとまったお話を述べさせていただきます。
 溝部脩司教様は,前任地である仙台教区の教区長に就任されるにあたり,「ウニターテム・スピリトゥス」というモットーを掲げ,文字どおり聖霊のもたらす一致を求めて教区作りに励んでこられました。今回高松教区に転任なさり,深堀司教様に代わって新しい教区司教に就任なさるにあたっても,同じ標語を持って望みたいとおっしゃっておられました。皆様方の今日の式次第のところにもカードが用意されております。聖霊のもたらす一致を求めて教区作りに励みます。そう溝部司教様の決意が込められたカードであります。非常に時宜にかなった,賢明な判断,選択であったと僭越ながら思っております。
 使徒パウロの自らの言葉でありますけれども,神から恵みを頂いて,異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となった宣教者パウロは,異教の地に次々と教会を創設していきました。しかし,どこの共同体においても,それなりに問題があったようであります。中でもパウロの心を痛めたのは,コリントの教会のようでした。コリントの教会にあてて書き送った手紙の冒頭に,「兄弟たち,私たちの主イエス・キリストの名によって,あなた方に勧告します。皆勝手なことを言わず,仲違いせず,心を一つにし,思いを一つにして,固く結び合いなさい。」と言われております。そのわけがそのすぐ後で語られています。「私の兄弟たち,実は,あなた方の間に争いがあると,クロエの家の人たちから知らされました。あなた方は,めいめい,『私はパウロにつく』,『私はパウロに』,『私はケファに』,『私はキリストに』などと言っているとのことです。」。人の集まるところ党派や派閥ができるのも致し方ないと言われれば,確かにそうでありますけれども,こと教会,教会共同体にあっては,本質的に相容れぬものであります。私たちは皆洗礼によって父と子と聖霊の交わりに招き入れられた者だからであります。教父の一人,聖チプリアーノが言うように,「教会は,父と子と聖霊の一致に基づいて,一つに集められた民」であります。そして更に,教会における交わりと一致を通して,全ての人が神様の交わりへと,その親密な交わりへと招かれています。
 ヨハネ・パウロ2世教皇様は,キリスト降誕2000年を祝う大聖年に当たって,次のように述べておられます。「人間社会はキリストのうちに新たにされ,神の家族に変わらなければならないのです。この課題に答えるために教会は,一致を守り,交わりの命のうちに育っていかなければなりません。」そう述べておられます。また更に,新しい千年期を迎え,次のようにも語られています。「教会が思い切って力を入れなければならない計画は,交わり「コムニオ・コイノニア」についてです。教会を交わりの家にすること,これは,新しい千年期に,もし私たちが神の御計画に忠実でありたい,世の大きな期待にも応えたいと望むならば,私たちの目の前に迫る大きな挑戦です。」そのように私たちに訴えておられます。私たちも教皇様のこの意向に沿って,教会の交わり「コムニオ・コイノニア」について,今一度改めて考えてみることは,特にこの着座という式にあたって考えてみることは有意義かと思います。
 教会の交わりと一致の源泉は正に「コムニオ」と呼ばれる一致の秘跡である聖体にあります。今年の10月溝部司教様は,日本の教会を代表して,公式巡礼団の団長として,国際聖体大会に赴かれます。この一致の秘跡と呼ばれる聖体について,パウロは次のように語っています。正に,コリントの教会に送られた手紙の中の言葉であります。「私たちが神を賛美する賛美の杯は,キリストの血に与ることではないか。私たちが割くパンは,キリストの体に与ることではないか。パンは一つだから私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」。
 私たちは今,便宜上,各地で小さなホスチアを捧げて,感謝の祭儀を祝いますけれども,それでも司祭の手元には,いつも一つだけ大きなパンが用意されております。「まあ,神父さんは特別だから」とお思いになっている方も中にはあるかもしれません。子供たちの中には「神父さんはいいなあ,大きい御聖体が頂けて」と思っている子供たちも少なからずいるかもしれません。しかし,大切なしるしであるわけであります。
 パウロの言うように,一つのパンを分けて食べるから私たちも大勢でも一つの体なのです。そういう私たちの信仰を表明しています。ですから,教会はキリストの体と呼ばれてきました。教会を迫害していたパウロは,ダマスコに向かう途上,突然天からの光に包まれて「サウル,サウルなぜ私を迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。「あなたはどなたですか。」とパウロが尋ねると,「私はあなたが迫害しているイエスである。」という答えがありました。パウロの回心の場面でありますけれども,主御自身が,御自分が教会そのものであると表明なさっていることに,私たちは心を留めなければと思います。聖体拝領の時,主と一致させていただいた言葉かり考えられていて,一つのパンを分け合った,私たちが,互いにキリストにおいて結ばれ,一致しているという事については,多くの場合あまり心に留められていないかもしれません。しかし,実際は聖体の秘蹟を通して,キリストとの一致だけでなくて,また同時に私たちキリスト者同士の相互の一致が図られ,教会はキリストの体としてその交わりを実現しているわけであります。
 私たちは,この御聖体を通して,実現する私たちキリスト者同士のその一致にも心を配る必要があるように思います。対立や分裂を繰り返していたコリントの教会に心痛めたパウロは,有名な体のたとえをもって,教会の交わりと一致を説き,更に,愛の賛歌をもって,愛に生きるよう諭しています。「目が手に向かって,『おまえはいらない』とは言えず,頭が足に向かって『おまえはいらない』とも言えません。それどころか,体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要なのです。」そのように語られています。キリストの体のたとえの中でパウロは,キリストの体の部分をなす一人一人には,それぞれ様々な聖霊の賜物,カリスマが与えられていることを教えています。教会はいろいろな賜物を持つ多くの人々が,それぞれ互いに自分の賜物を分かち合い,生かし合うことによって建てられています。使徒ペトロも,「あなた方はそれぞれ賜物を授かっているのですから,神の様々な恵みの良い管理者として,その賜物を生かして互いに仕えなさい。」とこの勧告の言葉を残しています。
 このことと関連してでありますけれども,全く話は飛びますけれども,法隆寺の宮大工の棟梁で,文化功労者にも叙せられた西岡常一(にしおかつねかず)さんという方がおられます。ご存知の方も多いかと思います。
 もう既に亡くなられましたけれども,十年前ほどにですね「木の命・木の心」と言うタイトルの本を口述筆記の形で書かれています。とても興味を引く本であります。西岡家は代々法隆寺の宮大工の棟梁を務める家系にあるそうで,家には様々な家訓が残されている。その一つに「堂塔建立のためには,木を買わずに山を買え」と言う家訓があるんだそうです。大まかに言ってですね,山の斜面,東西南北があるわけでありますね。南の斜面と北の斜面,良く陽が当たる部分とあまり陽の当たらぬ部分に育つ木でありますけれども,南斜面に生育した木はですね,幹は細いけれども中身は硬い,その反対に北斜面に育った木は幹は太いけれども中身は柔らかいという特徴を持っているんだそうです。そこで「木は生育のままに,生育の方位のままに使え」そういう家訓もあるそうです。棟梁に任されている重要な役割は,実際に山に分け入って,一つ一つの木の性質を見極め,その木をこれから建てる堂や塔のどの部分に使うかを見定めることにあるそうです。これが棟梁に任せられた重大な務めであるそうです。まあ,木の性質は千差万別でありますけれども,たとえ癖の強い木でも,その癖の使い方によっては,建物が長持ちし丈夫になると西岡さんは語っています。性質の異なる木の個性を見抜いて使ってやる方が,建物はより堅固になり耐久性も増すそうであります。まあ,これは今の日本の社会の社会批評になるんでしょうか,最近では建築材料のほとんどはですね,合板,機械で削り木の癖を無くし,合板にした方が使いやすいし仕事も速い。万事能率や効率が優先される世の中を,伝統を引く西岡さんは嘆いています。
 木の命には二つある。これは皆さんもすぐ分かることだと思いますけれども,この木の命として樹齢というものがありますね。それと同時に木が用材として生かされてからの耐用年数というものがあります。風雪に耐えた樹齢千年の大木は,切り倒された後も塔や堂を支えて更に千年あるいはそれ以上生き続けるそうであります。棟梁は木の癖を読み,職人たちの心を一つにし,祈りにもにた心意気で木も組み上げていくと語られています。「塔組みは木組み,木組みは木の癖組み,木の癖は人で組め,人を組むのは心意気」と言う家訓もあるんだそうです。この本と出逢いまして考えさせられました。教会も正にこういう事かなあと。様々な教訓も与えられました。考えてみますに,ナザレの大工の息子としてこの世来られたキリストは,神の国を建設する棟梁といえるかもしれない。ローマ書の言葉に次のような言葉があります。「あなた方は知らないのですか,キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たち皆,またその死に与るために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によって,キリストと共に葬られ,その死に与るものとなりました。それは,キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように,私たちも新しい命に生きるためなのです。」
 キリストの死に与る洗礼を受けた私たち一人一人は,たとえどんな癖があったとしても,どんな欠点があったとしても,キリストによって新たに組み直され,生かされており,神の国の建設にとって大切なかけがえのない部分だということが言えるかなと思います。司教職にあるものは,この神の国の建設のために,キリストに代わって,キリストの棟梁としての役割を担うように仰せつかっているとも思います。司牧者は,それぞれのカリスマに対して,聖霊の働きに対して深い尊敬と注意を払いながら,それらを識別して行かなければなりません。第二バチカン公会議の言葉を借りれば,司牧者に期待されているのは,霊を消すことではなく,全てを試し,良いものを保つこと。しかし同時にですね,しっかり識別していくよう求められています。これも公会議の言葉になりますけれども,傾聴に値すると思います。「霊の賜物は特に顕著なものも,又,もっと単純で広く与えられているものも,全てまず教会の必要に適応したもの,有益なものであるから,感謝と歓びをもって受け入れなければならない。しかし,異例の賜物を軽々しく求めたり,又,使徒的活動の効果をそれらからむやみに期待してはならない。しかも,それらの賜物の正真性と順当な行使を判断するのは,教会を治める人々に属している」と言われています。
 思いのままに吹く聖霊の自由な働きにより,教会には様々な賜物が与えられています。教会の役務者,とりわけ司教がそれらの賜物を識別し,全体の益になるよう整え,教会の一致のために奉仕するよう召されているという事ができると思います。その意味で公会議は,司教職そのものがそれぞれの教会における一致の見える根拠であり,基礎であると明言しています。教会は一致の秘蹟,司教のもとに一つに結合された聖なる民であると言えるよう,心を一つにして聖霊の導きを祈り求めたいと思います。
 溝部司教様は,「霊による一致を保つように努めなさい」という使徒パウロの勧めの言葉に従って「ウニターテム・スピリトゥス」聖霊のもたらす一致のモットーを掲げられました。このモットーがこの高松教区にあって実現しますようにと心から祈ります。最後の晩餐の時の主御自身の祈りが朗読されました。「父よあなたが私のうちにおられ,私があなたのうちにいるように,全ての人を一つにしてください。」これはイエズス様の遺言と言ってもいい言葉であります。人が死ぬときに残したその言葉には重みがあります。私たちは信じる主のその言葉を,我が祈りの言葉として,今このミサの中で捧げていきたいと思います。

このページのトップへ

祝辞(教皇大使エムブローズ・デ・パオリ大司教)
 今日は高松教区にとって,とても大切な日です。
 大きなお祝いの日ですが,同時に寂しさ,喜びそして希望が入り混じった日でもあるでしょう。
28年に渡り,高松教区のために働いて来られた深堀司教様の退任を思うとき,寂しさもあります。深堀司教様,長年にわたって高松教区のために本当に御苦労様でした。退任なさった後も,いっそう御健康に恵まれ,これからも高松教区の発展のために,たくさんお祈りをお願いいたします。また今日は,高松教区に新しく溝部司教様が与えられた大きな喜びの日です。溝部司教様,私たちの司教様のために心からのお祈りと惜しみない協力を司教様にお約束いたします。
 また,今日は希望の日です。希望は,教区の未来です。特に神様の御摂理に信頼することだと思います。イエズスは,いつも共にいると私たちに約束してくださいました。この約束に深い信頼を置くことが大切だと思います。もちろん教区の未来が希望であるためには,神の民である皆様の協力が必要です。イエズスは,共にいてくださると言いましたが,私たちの肩代りをするとはおっしゃいませんでした。自ら司教と共に働く必要があります。聖書によく畑を耕すイメージがあります。私たちも鋤を手に働くというイメージです。聖パウロはもう過ぎ去った過去は忘れ,目標をしっかり見てベストを尽くそうと勧めています。私たちの場合は,過ぎ去った過去を忘れるのではなく,むしろそこから多くのことを学び取り,目標を目指して新しい一歩を踏み出しましょう。
 主イエズス・キリストの恵みが,教区の全ての皆様の上に豊かにありますように。

このページのトップへ

あいさつ(深堀敏司教)
 本日皆様に心からごあいさつ申し上げます。
 まず私は,ヨハネ・パウロ2世教皇様に,心から感謝申し上げます。教皇様が私を高松司教に任命され,司教の難しい務めをいつも支え導いてくださいました。私は教皇様に結ばれ,心を一つにして,教区の司牧に尽力いたしました。教皇様が私とそして教区民にいつも聖なる希望を注いでくださったのです。そして更に,このたび高松教区の新しい牧者として,フランシスコ・ザビエル溝部脩司教様をお選びくださいました。教皇大使エムブローズ・デ・パオリ大司教様,どうか私の深い感謝の念を,教皇様にお伝えくださいますように。
 教区の司祭,修道者,信徒の皆様。皆様は新しい牧者,溝部脩司教様に純粋な従順を宣言なさいました。いつまでもこの心を持ち続け,司教様としっかり結ばれて歩んでください。司教様のお言葉を神のお望みとして,深い信仰を持って受け入れてくださいますように。私は祈ります。溝部司教様のために祈ります。そして教区の皆様のために,日本全体の教会のために祈ります。それが私に残された短い…でしょうと思いますが,…私に残された人生の第一の務めであろうと確信します。今ここで私は皆様に「さよなら」と申します。「さよなら」といのは,いろんな意味があるんですね,明日来るのに,また「さよなら」と言うんですが,私は「さよなら」と申しますが,いつでも皆様のお顔を見るために,こっそりと来るかもしれませんし,皆様は,私がいる所に来てくださるならば,私は喜んで皆様をお迎えいたします。
 いつまでも皆様お達者で,子供達をしっかりと養って,信仰を受け継げて,神学生も頑張って司祭職を目指して行かれますように。簡単ながら謝意といたします。
ありがとうございました。

このページのトップへ

祝辞(司教協議会会長 野村純一司教)
 まず,皆様にごあいさつするにあたりまして,27年間,高松司教区の司教としてお働きくださいました深堀司教様に感謝申し上げたいと思います。
 今年高松教区は,1904年に使徒座知牧区となってから,ちょうど100年を迎えると聞いております。この節目の年にあたりまして,経験豊かな溝部脩司教様が後継者として高松教区の司教として着座されましたことに,深堀司教様と高松教区の皆様に心からお喜び申し上げます。
 日本の16教区のそれぞれには歴史と現在の状況があります。しかし,日本全体をとってみましても,日本の教会は小さな教会です。日本の教会として福音宣教に協力一致していくことが大切です。サレジオ修道会の管区長,仙台教区の司教を務められた溝部司教様をお迎えした高松教区が,日本の教会の一つの教区として発展することを願っています。
 溝部司教様は司教としてのモットーを,「平和の絆で結ばれる聖霊による一致を」という言葉を選ばれました。そして,高松教区の4県の信仰者の一致を求めておられます。それはまた同時に,日本の教会全体の一致を求めていることでもあると私は理解しております。先ほどこのミサの中で聴きましたヨハネの福音書におきまして,最後の晩餐の時のイエス・キリストは,遺言とも言うべき言葉を残していかれました。以前は,イエスの司祭的祈りと呼ばれていた言葉の一節です。弟子たちと弟子たちによって,弟子たちの言葉によって信じる人々のために,「父よ,あなたが私のうちにおられ,私があなたのうちにいるように,全ての人を一つにしてください。」と切々と祈られました。私たちはこのキリストの言葉を,心に刻んでおきたいと思います。そして,今日も,全国の司教たちがここに出席させて頂きました。それは,溝部司教様の着座が一高松教区のお祝いだけではなく日本の教会全体のお祝いであると感じているからです。私たちは互いに協力一致して,福音宣教に努めていきたいと思います。高松教区の信徒の皆様も,司祭,修道者の皆様も溝部司教様を中心として,協力一致して高松教区における福音宣教に努めていかれることを願っております。どうか高松教区の皆様,ご一緒に私たち全ての日本の教会の兄弟たちと共に協力して福音宣教に努めて行こうではありませんか。
 今日は本当におめでとうございました。ありがとうございました。

このページのトップへ

祝辞(大阪管区代表 池長潤大司教)
 溝部司教様,おめでとうございます。そして,深堀司教様,長らく本当にご苦労様でございました。
 私は,大阪管区の代表として,ただありきたりで形だけの祝賀のあいさつをするつもりは毛頭ございません。今日の着座式の中で,信徒の皆様,修道者の皆様,そして司祭の皆様,この教区の皆様方は,溝部司教様に一致と従順の誓いをなさいました。そして,他の教区の私たちは,一致と愛の誓いを申し上げたいと思います。
 特に私の心に痛みがあるのは,深堀司教様,本当にきちっとした愛のこもった協力をしてまいりませんでした。そのためにどれほど深堀司教様がご苦労なさったか,痛切に感じます。今からこそ,その反省も踏まえて,深い一致と愛を必ず実現申し上げたいと思い,溝部司教様にそれをお捧げしたいと思っております。この高松教区の皆様にとっても,一致とか従順とか愛とか,それはただこの典礼の中で形式的に誓われたものではなかったわけです。それが本当に現実のものとなるためには,何よりも心の底から,その誓いの内容というものをもって,それを表していくということが,欠かすことができない事柄です。他の教区の私たちも,一致と愛,それを福音の真髄というこのものを,もし私たちの心から捧げ,それを現実に着座なさった溝部司教様にお捧げすることができなければ,日本全体の中にキリスト教の真髄が十分には,少なくとも,存在しないと思っています。そして,愛には血を伴う要素もございます。十字架の要素もございます。それぞれ犠牲を払っても,この高松教区のために,私たちは必要なことを行ってまいりたいと本当に思っております。溝部司教様のご意向,そのお心に一致して,そのお考えに沿って私たちはできる限りのことをしてまいりたいと思います。今日の日は,この意味で私にとっても大きな意味を持っております。
 今後も,お集まりの,そしてこの教区の皆さんと共に手をあわせてこの愛と一致を築き上げて行きたいと思います。

このページのトップへ

祝辞(高松教区司祭団代表 池田義高神父)
 教区司祭団を代表しまして,一言お祝いの言葉を申し上げたいと存じます。
 まずは溝部司教様,本日,高松司教座にご着任頂き誠におめでとうございます。そして,同時にまた27年にわたる教区司牧の任を終えられる深堀司教様にもこの場を拝借しましてご苦労さまでしたと心より慰労の言葉を申し上げたいと思います。
 さて,今年はちょうど1904年1月27日に教皇ピオ十世の教令により,ドミニコ会師ホワン・アルバレス師を初代教区長とする四国知牧区が誕生してから数えて100年,つまり高松教区創設100周年という大変意義深い節目の年に当たっておるわけです。奇しくもこの記念すべき年にあたり,聖座は格別な計らいにより,本年5月14日付で新しい司教を高松教区に任命し,本日こうしてフランシスコ・ザビエル溝部脩司教様のご着任を目の当たりにできましたことは,我が高松教区民にとりましてまさに歓喜の極みと言うべきだと思います。
 それにつきましても,周知のとおり溝部司教様には,前任地の仙台教区長としての着任後日もなお浅く,仙台教区民にとりましては,敬愛して止まない「おらが司教」を早々にして高松に送り出すことを,余儀なくされたわけでありますから,その心情を察するときに,今日の高松教区の我々の喜びは,仙台の方々の多大な犠牲の代価に他ならないことを深く肝に銘じなければなりません。そのためにも我々高松教区民は,新司教の指導の下,一致団結して理想的な教区再建に向け,一人一人の奮起と結束が大いに促されるところであります。
 ちなみに,ミサの説教にもご指摘がありましたように,使徒パウロのコリント前書12章21節の「目が手に向かって『おまえはいらない』とは言えず,また頭が足に向かって『おまえたちはいらない』とも言えません。それどころか,体の中では他よりも弱く見える部分が,かえって必要なのです。」というこの至上命題と,同時にまた,溝部司教様の紋章の「ウニターテム・スピリトゥス」つまり「聖霊のもたらす一致」,これを教区民相互の合言葉としながら,この際,上下双方の人格の尊厳が,額面通りに重んじられることを念願する所存であります。
 以上,はなはだ簡単措辞でございますけれども,本日の司教着座式のお祝いの言葉といたします。本日は,大変おめでとうございました。

このページのトップへ

祝辞(高松教区信徒代表 今泉芳純氏)
 諸先輩がたくさんいらっしゃる中,誠に僭越ではありますが,ご指名を頂きましたのであいさつを述べさせていただきます。
 フランシスコ・ザビエル溝部脩司教様の高松教区ご着座にあたり,教区民一同喜びと新司教様を送ってくださった神様への感謝の気持ちで一杯です。
 ご存知のように私たちの教区は,ドミニコ修道会がこの四国で知牧を開始され,以来各修道会、教区の諸賢に導かれてこの秋100周年を迎えようとしています。この教区の規模は世界中で小さい教区の一つといわれ,更に少子高齢化や世の物質主義の風潮から,信徒の数は減少の道をたどっています。しかし,私たちは希望を失っていません。小さい教区だからこそ,全教区民の皆様が顔を会わせお話をすることが可能であり,司教様と直にお会いできる機会が多いからです。また,羊の小さな群れが連帯感と責任感を持ち,各自が群から離れないよう努力する中で,お互いに人格を認め、聖霊の導きによって信じ合い,愛し合って,神様の道を歩みながら,萎縮や背伸びをしないで,福音を述べ伝えるならば,この小さな教区が世界中に誇れる教区になるものと確信しているからです。
 お聞きするところによりますと,司教様は仙台から愛用のお車を運転されて,この四国にご赴任されたと伺っております。これから、何かとお忙しい日々が続くとは存じますが,合間を縫って愛車と共に各小教区をご訪問くださり,私たちの顔をご覧頂き,親しくお話をお聞かせくださいますようお願いいたします。私たちも機会あるごとに,司教座へ足繁く訪れさせていただき,ご指導を賜りたいと考えております。信徒一人一人が,神様から頂いたカリスマを差し出し,御国の建設のための働き手となることができますように,お導きくださいますようお願いいたします。
 最後になりましたが,27年間の長きにわたり,私たちを司牧してくださったヨセフ深堀敏司教様本当にありがとうございました。
 溝部司教様,深堀司教様のご健勝を心からお祈り申し上げながらあいさつに代えさせていただきます。
 2004年7月19日 愛媛地区信徒使徒職協議会 今泉芳純

このページのトップへ

あいさつ(溝部脩司教)
 これを機会に私はまず,ローマ教皇大使に対して,最初にお礼を申し上げたいと思います。
   (エムブローズ・デ・パオリ大司教に英語で感謝の言葉を述べられた)
 どうしても,感謝の言葉を,この場をお借りして申し上げたいお方は,やはり深堀司教様です。27年の長きにわたって,教区を司牧なさいました。その間教区はいろいろな面で発展し,特に霊的生活を深めるという作業をして下さいました。高松教区民に代わって私がお礼を申し上げます。ありがとうございました。
司教様の故郷はどこか,いろいろあるでしょうけど,この四国ですので,いろいろな機会を見つけては里帰りをなさいますように,教区民一同お待ち申し上げております。
 この場で申し上げたいもう一つのことがあります。それは,仙台教区の司祭,修道者,信徒の皆さんについてです。今ここに代表が集まってくれております。よろしければ仙台から来た方,お立ちになってくださいますか。
   (仙台教区の方に拍手)
ありがとうございました。ご覧のとおり沢山の方が来て下さいました。皆さんは仙台と言ったらどういった印象をお持ちでしょう。どういう所とお考えでしょう。冷たい,少し間があいてる,反応の鈍い人達のことをお考えかもしれません。でも素晴らしい所でした。支えて下さった方々に,短かった4年間ということでしたけど,東北の地にあって,私は九州の出身でして,東北のことはよく分かりませんでした。でも今4年たって,この私を支えて,励まして共に働いてくださった皆様,それから特に司祭の皆さんに感謝を申し上げて,この新しい任地である高松から感謝の言葉を皆さん代表を通しながら,教区民全体に伝えてくださるようにお願い申しあげます。
 それから,ご参列の司教様方,遠方からはるばる高松教区のためにおいでくださったことに感謝申し上げます。教会は交わりです。普遍教会との交わり,地方教会との交わりが,具体的にこのような形で実現されていることに私は感動します。
 高松教区も日本教会の一つとして,日本の教会に何ができるか,何を寄与できるか,やはり真剣に考えて行かないといけないと信じております。自分の教区のことだけを考えてはいけないと思います。それから,高松教区の司祭,修道者,信徒の皆さん。着座の日にあたりまして,共に手を取り合って歩むことを誓いましょう。古いものは捨て去られるのではなく,新しい装いで生まれ変わらせる,これがカトリック教会の良き伝統であり,知恵でした。私たちはその伝統と知恵を,守り抜いて行かないといけません。そのためには柔軟な姿勢,受け入れる寛容さ,事を進める大胆さが求められます。幸いに深堀司教様が残された,霊性を大事にする伝統がこの四国には息づいています。この1週間,深堀司教様と生活を共にして,それを私は,いたく感じさせられました。
 高松教区は信者数が少なく,教会の数も修道者も少ない小さな教区であると,先ほど信徒の代表の方がおっしゃいました。けれども考えてみれば,それこそ私たちの誇りなのです。小さなものを通して福音が伝えられることが実践できる素晴らしい教区であると,自負の心を持って歩むようにいたしましょう。数や力に頼らない,一人一人の信仰に裏付けられた教区作りに励みたいと私は考えます。どうぞ一緒に歩むようにお願いいたします。
 今日はどうもありがとうございました。

このページのトップへ