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(冒頭録音できず)
ま,司教として非常に遅い年齢で任命されております。それから4年仙台で働きまして,また今回は高松に移転しなさいということでしたので,高松にやってまいりました。考えてみますと60代から70代にかけて,人生の余白かなと思っていましたけど,それは余白ではないということをひしひしと感じさせられております。

 大事なのは何が自分に起こるかということではなくて,起こったできごとを通してこれは何なのかっていう問いかけをすることじゃないかなと。今日マリア様の祝日にあたっております。マリア様はイエス様が生まれるということに対して,「心にとめて思いめぐらしていた」と聖書がいいます。大事なのは,ほんとに心にとめて思いめぐらすことです。皆さんもこうして教会に来たこと,このような人と出会ったこと,このような結婚をしたこと,こういう子供に恵まれたこと,それらを思いめぐらす,ただ自然の営みでいつかは来ていつかは去っていく,そんなものではない。こういうとらえ方が信仰であるという風にいえます。

 転勤をしながら非常にいいこともたくさんありました。まず日本の風物詩をたくさん見ることができました。東京から長崎,長崎から仙台,仙台から四国と,日本を東に西に移動した自分がわかるような気がします。で,多くの人に出会いました。またカトリック教会って一言で言いますけど,地方によってずいぶん違うってことも,よくよくわかってるつもりです。で,新しい町に行くと,私は決まって町を少し歩くことにしております。歩くだけ歩いてると町のにおいと言うんですか,町の感覚とか,こんなものが身に付いてくるからです。時々ベンチに腰掛けて,通っていく人を見つめております。いろんなものがわかるような気がしております。私たちが生きてる社会,世界っていうのが見える。とってもこれは大事な点かなあと自分に言い聞かせております。私はこの新しい土地の中で,どんな感覚でどんな感性で生きるかっていうのが,非常に大切な課題かなと。私が持ってきたものを押しつけていくようなものの見方じゃなくて,ここにあるこのにおいとか,ここにあるこの感覚を自分がどのように感じていけるか,それが私に課せられた一番大きな課題かなという風に感じております。

 町中で非常に気づきますのは,やっぱりあの子連れの母親の姿と言うのがとってもよく目につきます。どこに行ってもこういう若いお母さん達を見てると私はほっとします。
 私たちと私たちの上の世代っていうのが戦後苦労して,こんなに苦労して作った日本の社会,この社会の中で若い人がいなくなって,私たちが共有しているこの道路も商店街もこの教会も全部ゴーストタウン化したらどうなるでしょう。私はぞっとするような気がします。昔ベルリンの壁が崩れましたとき,私はちょうどローマにいました。で,その崩れた次の瞬間に大使館にビザをもらって,プラハの町そしてスロバキアの方にと一週間ほど旅をしました。あれほど綺麗だと思われていたプラハの町が見事に荒廃している姿を自分の目で見たような気がします。今はきっと変わったでしょう。人の精神が廃れますときには若さが廃れるときには,必ずその価値観も精神的な文化も廃れていくというのを私たちは実感することができます。その意味で若いお母さんが子供を連れてふざけたり金切り声を上げたりしてる,そういう姿を見るのはとっても大きな楽しみです。明日への希望がそこには見えてくるからです。

 今日はマリア様のお祝いをしております。マリア様といいますと強いお母さんとか,優しい妻とかいうイメージで彼女をとらえてしまうかもしれません。従って,マリア様のお祝い日は何か人間讃歌,女性讃歌のお祝いのように感じてしまいます。実際カトリック教会の伝統の中で,綺麗なマリア様を崇拝するという傾向が多分にありました。
 でも,教会はマリア様を「神の母」と讃えて敬っております。どういう意味でしょう。神の母という称号は,単に強いとか優しいとか美しい女性とかっていうこと以上の何かを私たちに語ってるんです。イエス様はマリア様に「婦人よ」とよそ行きの言葉で話しかけます。なにかよそよそしい,子供のイエスから出ると,生意気な男の子の言葉にうつります。でも、そこには意味があるんです。「単なるおふくろじゃないよ。神の母なんだ。」という意味を込めて使っております。どんな母でしょう。言葉を信じて,その意味がわからないけどその言葉を思い巡らして、そして自分の子供を見つめ、その子供の中に神の手を見つめてる。そういう女性の姿がある。それを「神の母」と呼んでおります。
 マリア様の偉大さというのは,かわいいイエス様を抱きしめてかわいいかわいいと言ってスキンシップで育てているマリア様の姿ではありません。「この子は神から遣わされた子,この子は現代社会の中にあって偉大な人間となる神から遣わされた人」という信仰の目で自分の子供を見つめてる,これがマリア様の偉大さです。子供を見つめることによって,神様を見ました。イエス様を見つめることによって,自分の人生を見つめることができた,それがマリア様です。

 私たちは長く教会にいるかもしれません。でも,教会があってもなくても私たちはいつの間にか人の自然な営みしか見ていないのです。この親がいるのも当然,この子がいるのも当然,これだけ女性がたくさんいるのにたった1人の女性と出会ったことも当然,この仕事を選んだことも当然,その中で出会ってる人は当然,すべて自然の域を一つも超えない。これが不信仰というふうに言えます。すべてが自然の営みにすぎないと考える,これを私たちは乗り越えていかないといけません。一つ一つの出逢い,一つ一つの出来事の中に神様を見つめることができる,それが大事だということです。たとえて言えば私が高松に来たっていうこと,これを自然の営みとして見るか,その中に神の手を見,その中で頭を下げて自分に与えられたものを受け止めていくかいかないか。それが私の人生の岐路であるといえます。
 何か特別な祈りをしたら神様が見つかるわけではありません。何か特別な行事をしたら,活動すれば,神様がいるわけではありません。あなたは,あなたの中に,あなたの配偶者の中に,あなたのこの子供の中に,神を見つけなければ決して神は見つからない。自分の生活そのものが神がいるその場所である。こういうことを理解しないといけません。
 特別なことをする必要は全くありません。年をとって私は動けない,もう教会にも行けない,なんかいいこともできない。大丈夫,あなたがその人生を受け止めること,これが信仰なんです。若くてぴちぴちしてる,何かができる,あなたがその何かをやっていく,その中に神様がいる。これが信仰なんです。
 毎日の生活を捧げること,出会った人々に感謝すること,一期一会を毎日生きること,これが信仰生活です。信仰と生活の乖離ということが話されてずいぶんたちました。ナイス1の中でずっと言われたことです。自分の生活そのものを,自分の周りにいる人のことを,自分に起こってくる出来事の中に神様を見つめる,そういう習性を身につけていかないといけません。マリア様が偉大だったのは,ちょうどここである。しかもその意味がわからないで,一生涯これは何なのかという問いかけをしていった,こういう女性の生き方があるからです。マリア様の祝日にあたって私たちは自分の信仰を振り返って考えてみましょう。