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昨日も申しましたけど佐々木神父について,私はまだひと月あまりしか一緒に生活しておりませんので,多くを語ることができません。一般的な話を今日はさせて下さい。

人の死というのはそれぞれ異なっております。人の顔が違うように,それから人の生き方がそれぞれ異なるのと同じように,人の死も異なっております。老いて死ぬ人にはある種の安堵感が残されて…残された人々には残ります。幼くして亡くなったものの場合には,悲しみが非常に働きます。働き盛りの人の死には,悲壮感が漂います。たぶんやり終えることの無かったことへの無念の思いがあるからかもしれません。

私は高知のあの赤十字病院で佐々木神父の死に顔を見ながら,つくづく思ったことです。おそらく無念だったんではないかな。やり残すことが多かったんではないかと,そんなことを考えました。私たちの死っていうのは,残された私たちに,亡くなった人がメッセージを送っております。死者は常に私たちに自分の人生を見るようにと問いかけております。

今日は福音書の中でトマスは「どうして」と問うております。「私たちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と。人の死っていうのはどうして私たちがこうして生きているのか,どうしてこのように死ぬのか,それにはどんな意味があるのか,そんなことを私たちに刃を突きつけるように問いかけております。

私たちはこの葬儀に体だけが参加しているわけではありません。亡くなった佐々木神父が私たちに剣(つるぎ)のように問いかけている人生の問いが…それを重いものとして受け止めていかなければなりません。人生の根源的な問いかけです。毎日の日常的生活の繰り返しの中で、一打ちの楔のように,私たちが根源的に生きる必要というのを、この葬儀は示してくれております。あなたはどのように生きるのですかと,あなたはどのように死ぬのですか。あなたの人生は残されたこの年月をどのように考えて生きていけばいいでしょうか。私たちは形だけの宗教を信じているわけではありません。宗教は生きるか死ぬかの,この根源的な問いかけを私たちにするものだからです。

私も職業柄多くの人の死を見て参りました。実にたくさんの死を見てきたと言ってもいいと思います。特に司祭達の1人1人の死を自分の目で見てきたような気がしております。常につくづく感じますことは,死は峻厳なものであること,荘厳なものであること,これを私たちは感じ取っていくことができます。佐々木神父への死っていうのは,私にも「どうして」っていう質問を今投げかけてくれております。この聖堂でひと月前私は着座しました。着座してひと月あまり,今から少しづつ仕事を一緒にしていくのかなと思った矢先の出来事でした。「どうしてこんなことが起こるのでしょうか」という問いかけをしてしまいます。「主に結ばれているなら自分たちの苦労は決して無駄にならないことを,あなた方は知っているはずです」今日言っております。パウロが言っております。

佐々木神父の顔を見ていまして,「死に結ばれて」っていうことを考えてみました。この人が自分の生涯において求め続けたものはキリストだったということです。たくさんのことが彼にもあったでしょう。でも最後に求めたのはキリストであるということ,教会であるということ,これを私たちはきちっと自覚することです。「どうして」と言う問いに答えてくれた方がキリストしか居なかったのではないかと,だから司祭職を選び,だからこのような人生を送ったのではないかと,思います。そのキリストは私たちにどんな答えを下さるでしょう。「私の父の家には住むところがたくさんある」と今日,福音書が言ってくれております。何という優しい言葉でしょう。この世のすべての出来事は過ぎ去っていきます。後10年後私たちは何人ここにいるでしょう。ただむなしいと嘆くでしょうか。人生はつらいもの悲しいものという風にだけ考えるでしょうか。そんなことはありません。今目の前で起こることは人生のすべてだと私たちは思いこんで,悲嘆に暮れて,人生を呪ってしまいます。なぜこんなことがあった…でもこんな私たちに「天の家にはたくさんのすみかがある。さあ来なさい」と主がおっしゃっております。この世界の中で,この世の中で争ったことも,憎み合ったことも,いがみ合ったことも,愛したことも,すべて過ぎ去っていきます。愛憎の人生に別れを告げ,今,死っていうのは永遠の至福が始まります。こう考えますと,なんてすばらしい人生私たちは終えることができるか,その究極のその向こうに新しい命の輝きが…それを信じて,私たちはこの教会に集まっております。

今目の前に起こる出来事だけにとらわれて,そこだけで憎んだり愛したりという,こういう愚かな生き方をしてはいけない。その向こうにある神の声,その向こうにある永遠っていうことを考えながら生きていく,これが私たちの信仰であるということを教えてくれております。佐々木神父が高松教区に残した功績を思い,感謝の心を込めてミサを続けることにいたしましょう。