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第31回高松教区信徒研修会 溝部司教講話

「信仰を伝える信徒の役割」

2004年9月19日
  於:松山教会

まだ、この教区に不馴れでして何を話していいのか、教区の中で私の方針が何であるかということもまだ言えない状況ですので、おいおいいろんな会合を重ねるにしたがって基本的な方針が話せると思います。
 今日のテーマは、どのように次の世代に信仰を伝えるかということですので、それに合わせながら、「信仰」というテーマをみなさんと分かち合って行きたいと思います。
 2000年の大聖年に際しまして教皇ヨハネ・パウロ2世は、大聖年を単なる巡礼とか外的な行事にしてはいけない、ということを強調されておりました。行事よりも内的な深まりを一番大切にするということでした。したがって私は今日皆さんと一緒に内的生活の深まりというテーマを中心に話させてください。
 今の教皇様は現代の殉教者を大事にしていて、日本にも現代の殉教者がいないかという間い合わせがきております。私は史学科で勉強しましたし、歴史が専攻ですので日本の殉教者を題材にしながら今日のお話をしていこうと考えました。
 殉教ということが分かるためには、イエス・キリストというお方が分からないといけません。そこで、今日は4点について話をさせてください。
 第1点、知ること。第2点、変わること。第3点、確固とした信念を持つこと。第4点、イエスを伝えること。です。

1:知ること
 まず第1点、知ること。この数年間でヨハネ・パウロ2世はたくさんの回勅あるいは教皇書簡、使徒的勧告を出していて、その中でイエス・キリストを知るということが大事なんだと繰り返し強調しています。
 今、日本の教会は188名の殉教者の列福を推進していて、もうローマに全ての資料は届けられております。私は30年前から歴史調査委員会の委員をしていまして、ほとんどの自分の時間はそこに使ったこともあり、188名の殉教者についてはかなり知っておると自負しております。
 自分の専攻だということもありまして、よく江戸の殉教地とか長崎とか大分とか殉教の場所に巡礼団を連れていくことが度々あります。
 東京にいました時に、ペトロ岐部神父が殉教しました小伝馬町に何度も巡礼者を連れて行きました。現在、小伝馬町の殉教地は十思公園となっております。地下鉄の小伝馬町を降りると、すぐそばにその十思公園があります。そこが昔の小伝馬町の牢でして、その牢に岐部神父が捕らえられてきて、逆さ吊りの拷問にあい、そこで殉教することになります。以前には十思公園の傍に小学校があって、そこに小伝馬町の牢の見取り図とか、拷問の場所とか、尋問の場所とかの地図がありました。今は都心の真中に子供がいなくなりまして学校がなくなり、残念ながら、今は見取り図を見ることができません。
 十思公園は、ごく平凡などこにでもある公園です。普通の公園としか考えられません。昼休みになりますと近くのOLがほかほか弁を食べている、トイレの傍でホームレスの人が寝そべっている、ベンチにはおぱあさんがいてお孫さんと遊んでいる、どこにでもある公園の風景がそこにあります。350年前、そこで逆さ吊るしにあって岐部神父が殉教したことなどまったく関係なく日々の生活が営まれています。でも、少し歴史をかじっていますと、いや、かじっていなければ十思公園に行っても、私だってほかほか弁当を食べ、ベンチに寝そべって気持ちがいいなと、秋の日を楽しむことぐらいで終わると思うのです。ちょっとでも歴史がわかれば気持ちが変わると考えていいと思います。
 岐部神父の殉教について書いた書類があります。「契利基督記」という文書です。その中で、このように書かれています。「岐部ペイトロころびもうさず侯て、吊るし殺され侯、同宿二人、岐部と一つ穴にて吊るしもうし侯ゆえ、同宿どもすすめ侯ゆえ岐部を殺し申し侯由」。
 「契利基督記」は初代の宗門奉行であった井上筑後守が自分の任期を終えたときに二代目の宗門奉行のために自分がしたことを書き残した文章です。岐部ペトロを殺した、という官憲の文書、公式な文書がこれです。岐部ペトロの殉教は外国の文書にはありませんが日本の文書にはちゃんと殺されたと出ています。そのとき東北では3人の神父を捕まえ、二人は転ばしたけど3人目の岐部という男はどうしても転ばないので、殺したと伝えています。
 私ごとですが、私も岐部神父と同じ大分県の国東半島の出身ですし、岐部神父と同じ大学で学びました。従って非常に親近感のある神父でして、今回の188名の殉教者も『岐部神父と187名の殉教者』、として日本教会がローマに申請をしております。
 だからこの岐部神父のことを知っているので、十思公園のベンチに座ると「岐部ペイトロ殺し申し侯由」とか「岐部ペイトロ転び申さず候で吊るし殺され申し候」、などの文章が生き生きとしてきます。もしも知らなければ、公園でほかほか弁当を食べることでしかありません。この一文は私の中でこの場所を一変させていきます。
 “知る”というのはどんなことかということを、今、私たちに思い起こさせてくれております。350年前、この場所で、生きた、死んだ、しかもその人が「吊るし殺され申し侯」、ここまで考えますと十思公園内は生き生きと私の目の前に時空を越えて人を展開させてくれます。私は巡礼団を連れるとき、多くを説明しません。むしろ資料を準備してその場に座って自分で読むという作業をさせます。そこでノートをとる人もいます、それが終わったら一緒にお祈りして、あとは分かち合いをする。こんな形式をとっています。すなわち、長い饒舌な説明は一切しないこと、私は神父になったときに一つの決断をしました。決して信者を悩ませる長い説教はしないことです。なるべく短く、文章は簡潔にというのが私の司祭叙階の時の決心です。今でもそれを続けているつもりです。今日は講演ということで、話が長くなりますがお許しください。
 先ほども申しましたが、日本司教団の希望で私は日本殉教者の列福調査を歴史委員会の委員として長くやってまいりました。司教になって、今度はローマヘの申請とか日本殉教者の列福申請のために委員長に任命されました。だから、教区のみなさんに申し訳ないのですが、私はローマに行く機会が多くなることが心配です。
 歴史の調査先は主に大分、小倉、熊本、福岡と中九州の殉教者です。今日の話も中九州の殉教者にふれて、信仰という問題を扱って行きたいと思います。
 私がキリシタン史に非常に興味を持ったのは、加賀山隼人と彼の娘みやの生涯を勉強したことからでした。みやの文章を読んだときに肌寒くなる程の感銘を受けました。
 この、みやという女性ですが、40才から50才の間の中年の女性です。彼女はこのように言っています。「捨てがたき宗旨ゆえかようになり参らせ侯」。捨てることが出来ない宗教、信仰ですので私はこのようにして死んでいきます。「かようになり参らせ侯」。彼女の父親は加賀山隼人といって、1619年に小倉で殉教しております。
 加賀山みやの夫というのが小笠原玄也という人で、義理の父親、加賀山隼人が殉教すると同時に禄を奪われて、日雇い人足のような生活をします。
 小笠原一族の主家というのが細川一族でして細川忠興、細川忠利です。細川家が小倉から熊本に移されて大大名になった時、小笠原一族も小倉に残ってはいけない、熊本に一緒に行きなさいと命令を受けます。寛永の鎖国令が実施される頃、彼ら一族は熊本に連れて行かれます。細川忠利は自分の幼友達である小笠原玄也をどうにかして守りたい、殺したくないという気持ちがあり、彼らが信者であることを黙認して、ある一軒の家に軟禁します。
 でも、長崎に密告がありどうしてもかばうことが出来ないという状況になってしまいます。結局、細川忠利は小笠原一族を処刑にしないといけない破目になります。彼らは軟禁状態のまま50日間そこにとどまります。子供9人と父親の小笠原玄也と母親の加賀山みやと4人の下男下女、計15人がその家に軟禁され、そこの家は祈りの家に変わっていきます。
 50日間の間に彼らは夫々遺書を書きました。今までお世話になった人に書いたお礼の手紙です。その中で、“私は信仰を捨てるようにと言われましたけど、それは出来ませんので、今処刑されます。お許しください”と書きました。お礼とそして感謝も述べられています。「かようになり参らせ侯」の文書です。それが熊本城にそのまま残って私達に伝えられました。
 小笠原玄也は次のように言っています。「キリシタンの詮索またまたご座侯、11月4日座敷牢に入り申し侯、上下15名にて入り申し侯こと」。即ち、11月4日にキリシタンを辞めないということで牢に入れられるという命令があったので、親子共々全部で15名が座敷牢に入ったと淡々と述べているのです。
 加賀山みやはこのように言っています。「宗旨かえ候との御ことにて侯ゆえ、ながき後生捨てがたく侯と申しきり11月4日、牢舎申し付けられ侯」。信仰を捨てて仏教に変わりなさいとすすめられたけど、「宗旨替え候との申し入れ」がありましたが、「ながき後生捨てがたきゆえに」ながき後生、即ち永遠のいのちとは引き換えにできませんので「捨てがたく侯」とはっきり申しました。「きり」とは、はっきり申しましてということで、私は永遠の命を考えたらキリストを捨てて仏教に替わることは絶対出来ないとはっきり申しまして、11月4日に牢屋に入りました。と彼女は言っているのです。「女の身としてかようの死にいたしたくご座候、ありがたきことを、言葉に述べて申せず、なかなか申さず候、すてがたい宗旨ゆえ、かようになり参らせ候」。しかし、いままで自分を愛し、尽くしてくれたあなたにお返しすることも出来ないので、心苦しい。しかし、私はか弱い女ですのに、このような殉教の誉れを受けることが出来ることは、なんとありがたいことでしょう。「なかなかもうさず侯」もうこれ以上いえないくらい感謝しております。わたしみたいな女を殉教の列に加えてくださること「なかなか申さず侯。」「捨てがたき宗旨ゆえかようになり参らせ侯。」どうしても私はこの信仰を捨てられませんのでこのようなことになりました。
 18歳の長女はこんなことを言っています。「ついに宗旨のことゆえに果て申し候。」とうとうキリスト教という信仰のために私たちは死ぬことになりました。お喜びください。 淡々とした文章を私たちはこの遺書の中に読む事ができます。お母さんのみやが熱心で、子供たちを
死に追いやったのだとある人がいっていますが、お母さんがそういったからでなくて私がそう信じているからですと、長女は述べます。1636年1月30目熊本で全員殉教します。
 日本広しといえどももキリスト教徒の墓が官憲によって取り壊されなかったのは、熊本の加賀山みやの墓だけです。JR熊本駅裏に花岡山という山があります。その花岡山の中腹に加賀山みやの墓がそのまま転がってあります。よろしければ行ってみてください。加賀山みやのその墓の前で、「かようになり参らせ候」という言葉は生きています。
 十思公園では岐部ペトロ神父が「吊るし殺され申し侯」、熊本では「かようになり参らせ侯」「女の身としてかようの死にいたり、なかなか申さず侯。」これらの言葉が“知る”という意味をわたしたちに教えてくれるか、今はよくお分かりでしょう。
 “捨てることが出来ない信仰ですので命を捨てることになりました。”と淡々と語っていますが、外は抑えて内面から溢れる情熱みたいなものを読み取ることが出来ます。素晴らしい殉教者の信仰を私たちは見ることができます。「ながき後生ゆえ」、永遠の命を考えるとき、あくせくあくせく自分の今の事ばっかりで生きているそんな自分が恥ずかしくなります。
 今、この会場に加賀山みやと同年代の女性達もおられると思います。少し、みやのことを想像してみてください。子供を生んで育てて、そして迫害の中で死を選んでいく。子供と一緒に死を選んで行く一人の女性の姿を。知ったら感動します。感動したら何かが変わる。年とともに私たちは感動する心を失います。いたずらに自分だけを主張して、自分の経験が全てであるかのように振舞います。経験があるから人生が分かったような錯覚を起こします。
 殉教者は違う。あなたの人生感はたいしたことはない、ということを死をもって教えてくれております。先ほど言いましたが、私は十思公園に行ったら岐部神父の「岐部ペイトロ転び申さず候」を思うと感動します。花岡山に行ったら加賀山みやの「ながき後生ゆえに」を思います。そして、やはり感動します。自分はこの世の事ばっかりにあくせくしてはいけないなと、納得して自分に答えを出せるのです。
 体験的に知り、自分で本当に納得したときに、全ては生き生きと変わっていく。そして、その時に私の伝える言葉は絶対に相手に伝わる。
 次の世代に信仰を伝えることが出来るためには、体験的に私が知り、私がそれを本当に情熱的に熱い思いで受け留めること。ここから何かが始まるのです。頭のここだけで知っているのではありません。腹の底から知っている。聖書を知るというのは腹の底から知ることです。あるいは愛するのは腹の底から愛する、こういう意味を持っています。即ち、知的なもの、論理的なここだけの知識ではありません。
 加賀山みやも小笠原玄也も、せめて子供だけは安全なところに移して彼らだけは生き延べさせたいと普通の親の思いを持っていました。そして画策するわけです。走り回ってどうにか子供たちだけはと。でも、それもできないとわかったときに子供を納得させて一緒に死のうと話します。
 子供たちへの親の愛情とか、自分が選んだ道の誇りとか選択した喜びとか、そんなもろもろの思いを経ての決断があったのです。それらが全部現れるのが加賀山一族の殉教だなと私は思います。史学科に論文を発表しながら自分がやったことは本当に素晴らしい勉強だったとつくづく思いました。頭じゃなくて心から尊敬する人たちの歴史を書けてよかったという思いです。素晴らしい感動は、単に知るという領域を乗り越えさせて行きます。知るだけだったら駄目なのです。知ることがあなたを変えなければ駄目なのです。
 教皇様は「イエス・キリストを知りなさい」とおっしゃっていますが、頭で知りなさいと言っているのではありません。心の底から、腹の底から知りなさいとおっしゃっているのです。
 歴史研究では単に知っている人と、資料を通して自分を変える人との違いがでて参ります。聖書研究だって同じです。サロンのように聖書を勉強しているだけでは、あなたが変わるわけではありません。じっくりとことぱを読み取り、深く自分の人生にかかわって読まない限り、聖書の勉強は役に立ちません。
 毎日曜日「聖書と典礼」が配られます。ただ神父様の説教を聞いているだけであなたが変わるとは私には思えません。少し早めに来て「聖書と典礼」を自分で読みこなして、あるいは一週間前に読みこなして神父様の説教を聞いてみたら分かります。神父様は今日慌てて説教を準備したな、とか、何も準備しないで話をしているかなどかはっきりわかると思うのです。
 岐部神父にしても加賀山みやにしても「昔そんな偉い人がいたのですねえ」と言う郷土史家の発言でしかないと真の精神は伝わりません。大分県では岐部神父は郷里の英雄だと言っていますが、私は英雄ではなくて、信仰の証人だと言いたいです。
 多くの巡礼とか、多くの記念行事か教区でも、小教区でも行なわれます。四国百周年の行事も近々あります。大事なのは行事でしょうか。行事だけでしたら、終わったら空しいと私は思うのです。行事を組む中で、その意味を問い詰めている人たちが作っていく行事は本物です。
 私はパレスチナに行きましたとかローマに巡礼に行きましたとか、だれそれ、の殉教祭にいきましたとか、お祈りが出来てとてもよかったという言葉を何度も聞きます。でも、ちょっと生意気なことを言わせていただけば、極端なことばを使いますと、多くの場合それらはアクセサリーにすぎません。あなたの人生を根本から変えているわけではなく、よかったのは、アクセサリーなのです。付属品は中身で勝負していません。本当に知ったら、中身で勝負するようになります。
 信仰にとって大切なのは私たちに伝えてくれる、その主人公の魅力です。
 その主人公は岐部神父でしょう、加賀山みやでしょう。しかし、加賀山みやにしても、ペトロ岐部にしても、彼らが惹かれていたのは、その向こうにいるイエス・キリストというお方なのです。あの方の魅力に捕らえられた「転び申さず候」、「ながき後生ゆえかくなり参らせ侯」という文章になっているのです。
 私たちにとってイエス・キリストというお方は、私の人生を虜にしているようなそんなお方でしょうか。単なるアクセサリーでしょうか。殉教者というのはイエス・キリストというお方に、飽くことなく憧れ、飽くことなく惚れ込み、この方のために命を捧げてもいいと考えたのです。そこまで彼を知っていたのです。
 私たちは、ただ教会に行ってお説教を聞いて帰る。適当にボランティアをする。その中からあなたを変えていく力が与えられるでしょうか。あなたの生活そのものを霊的に変えていくカを与えない教会というのは何でしょう。宗教人生を変えて、初めて意味がある。こんなことを考えることがあるでしょうか。
 イエス・キリストというお方に飽くことなく惹かれていく自分を見つけること。それが信仰の証です。
 教会にはじめて来た頃は、おそらく新鮮な気持ちでイエス・キリストの教えを聞いたでしょう。
 10年、20年、30年、50年の歳月の中に、ありきたりのイエス、うす汚れたイエス、たくさんの着物で囲まれて中身が見えないイエスしか見えないのです。それを一枚一枚剥がさないといけません。ゼロになってイエス・キリストを見つめていかなければなりません。こういう作業を手伝うのが教会だと私は思います。
 数年前でしたけど横浜の合同壮年会に招かれて話をたのまれました。話をしてからみんなで分かち合いをしたのですが、みんな決まって同じことを言うのですね。現代は青年の教会離れが激しい、青年達が教会に来ないと。どこでもいつでも聞いた事ある話ですね。その時一人の人が手を上げてこんなことを言いました。教会に青年たちが来ないのは大人が伝えている信仰が本物じゃないからだと。痛い言葉ですね。次の世代に信仰を伝えるという前に、伝えるということを考える前に、あなたが、私が、自分の信仰をもっと見直さないといけない。本当にこのイエスキリストの考え方、見方に飽くことなく惹かれているか、いかないか考え直さなければならない。形だけの宗教、形だけのキリスト教の中にどっぷりと浸かって私は信者であると言う。その辺に間題はないですかと問いかけをしたいと思います。

2:変わること
 「悔い改めなさい」をギリシャ語で「メタノイア」といいます。「メタノイア」というのは、ものの見方が変わるという意味です。知ったらものの見方が変わる、これは大事なことです。ミラノの大司教だったカハロ・マルティーニの本に「宣教者を育てるイエス・キリスト」(女子パウロ会)があります。ルカの福音書の解説ですが、その五章は非常に面白い。ペトロと弟子たちは夜、漁に行ったけど魚がとれなくて帰ってきます。イエスは船に乗って話をして最後にペトロにもう一度沖にいって漁をしなさいと命じます。ペトロと弟子たちは昼の今頃、何も捕れるはずが無いと思ったのですが、イエスが行きなさいと言うので、行ってみましょうと決めるのです。ところが大漁となり帰ってきます。そのとき、ペトロはイエスの前にひれ伏して“私は罪人です”と叫ぶのです。
 なんでしょう、なぜ罪人と言ったのでしょうか。ありがとうではありません。ということはその前にはぺトロは罪人だと感じていなかったのです。なぜ感じなかったのでしょうか。ペトロはちゃんとした奥さんの旦那さんですし、仕事をちゃんとしている男性だし、ほどほどの善人で、誰からも後ろ指をさされるような人間ではないと感じているのです。そのペトロが、「罪人でした」と言ったのはなぜでしょう。自分はほどほどに妻を愛しているし、まあ、時々喧嘩をするけども、考えてみれば隣のアンドレアだって私よりもっと大きな声で奥さんと喧嘩し合っている、私は手を出さないけれど向こうは手を出している、あれよりは私のほうがまだましだ。給料はちゃんと家にもって帰っている、時々はまあ、まっすぐ家に帰らず暖簾をくぐりいっぱい飲んで帰るけど、まあ、それくらいのことはやっていいだろう。隣のアンドレアは私が1杯やるところ2杯飲んでいる。あれよりは私のほうが善人じゃないかと、こういう論理なんですよね。飲んだら上司の悪口を言うがそれぐらいのこと許されてもいいのではないか・・・。ボランティアもしているし、教会のお手伝いもしているし、頼まれたら神父様の仕事も手伝っている、ほどほどに私は良い信者だと思っている。ちょうどその時にイエスに出会った。そのとき、私は罪人だと気付くのです。ほどほどに善人だと思っていた自分が、そうでなかったと分かったのです。根本から人生観を変える出会いをしてなかったと、感じているのです。罪人ですと。よろしけれぱマルティーニの本をお読みになってくださればいいと思います。
 同じように女子パウロで幸田神父様の「赦すちから」という本がありますが、同じような問題提起をしています。読んでみてください。あるいは御受難会の岸神父様が「目からウロコ」という小さな本を書いております。全部同じ問題をあっかっております。罪人でないと思っているのはイエスと出会う前のペトロなんです。イエスと出会ったときに罪人だと自覚するのです。
 イエスというお方に出会った時、このままの人生観じゃだめだということを思い切り知らされます。問題はイエスと出会ったと思っていて、その実今の人生観では駄目なんだということまで理解がいかないことにあります。今のままでどうにかずうっとやっていけると思っているのです。イエスというお方が現れる時には、今までの人生では続かないのです。
 たとえばマタイの5章です。旧約聖書の律法では「殺すな」といわれている。私は殺していません、人を殺したことなんかないし、ナイフを使った事もないし、自分の妻に暴力をふるったこともないし、私はほどほどの善人ですと考えています。それに対して、あなたは殺してないですか、女性の人権が侵されているときあなたの心は痛みますか。胎児が殺される時に、あなたはそれに対してどのように感じますか。殺人事件が起こるその記事を読むときにあなたの心は痛みますか、痛みませんか。戦争で、イラクで死者が出るその時あなたは無感動、無反応ではありませんか、自己中心で人が死ぬのにも何の反応も何の感動もない、こんな私を罪人と感じるのです。イエスと出会わなければこんな事は全くありません。
 同じように「人を愛しなさい」、「歯には歯を」、「目には目を」、「しかしてわたしは言う、一マイル歩いてくれと言えばニマイル歩きなさい。下着をくれという者には上着もあげなさい、右の頬をぶたれたら左の頬も向けなさい」、文字通りの問題ではなくって、ものの見方が変わるのです。
 学生が試験に落ちて帰ってきた時、あいつは年中勉強しなくて遊んでばかりいたから、こんな結果も当然だろうと考える。一緒にとぼとぼと駅まで歩いて、ぽんと肩を叩いてまた頑張ろうねと言えるか言えないか。
 お年寄りのところに行って、「神父様、後10分、居てください」と頼まれたとしましょう。そのとき「そうね、20分、居ようかね。20分しか時間がないけどごめんね。」と言えない私は罪深いのです。「目には目を。歯には歯を。」の掟はこんな意味だったということをイエスは分からせるのです。それもこれもイエスと出会ったからです。イエスと出会ってからはものの見方が変わっていきます。変わらないイエスとの出会いだったらあまり役に立ちません。
 私の価値観、ものの見方、難しい表現を使いますと、福音的な価値観、福音的な視点というのが自分の身について参ります。そうしたら変わります。しっかりと福音的な視点を自分の身につける、その努力をしなければいけません。
 「人は殺さなかった」。でも、なんてけちな自分を発見するのです。たとえば「姦淫するな」。私は人の妻と不倫関係になったことなど一度もありません、私はその面に関して正常で正しい義人です、罪人ではありません。そうですか、本当に女性に対しての深い尊敬をもっていますか、言葉遣いはきちっとしていますか、ほんとに平等な人間として対等な関係であるという事を心がけていますか。女性が上司になったとき、あなたはその上司を敬う事を知っていますか。こう考えると、先入観と偏見によるものの見方、けちなとらえ方しかしていない自分に気付くのです。「わたしは罪人です」と言わなければなりません。
 言えばきりがありません。私は盗んでいませんとか、私は不倫をしていませんと胸を張って豪語している自分がいれば問題があるということです。ですからイエスと出会った時の、「盗むな」という掟は、助けがいる人に手を差出すこと。「姦淫するな」とは女性の深い愛情に生きる事を指しているのです。
 価値観が変わること、悔い改めることを「メタノイア」と呼びます。罪深さというのは1回それをしたからどうのこうのという問題ではなくて、もっと、根っこの自分を変えよう、立ち直らせようということ、それが「メタノイア」なのです。
 私は1回盗みました、神様お許しください。でも多分またするでしょう。その実、五回位たいしたことないと考えているのです。盗まないといけないほど、自分の中で腐っている自分がある、この自分を変えていく。根っこの自分を見つめることです。これがメタノイアです。根っこの自分、1回限りの行為よりは、それをしてしまう自分に対しての嫌悪感を持つことです。
 たとえば身体障害者の子供が居るとしましょう。よだれをたらしている、この子を愛さなければならないと頭では思う。私は信者としてどうしても愛さないといけない。抱きしめたのはいいけど、どろどろと涎が垂れてきて、新品の洋服を濡らす、生理的な嫌悪感を感じる、愛さないといけないけど嫌だなと。こんなことを感じてしまう根っこにある自分、これが罪深いと思うのです。たぶん女性に対しても同じです。女性を愛さないといけない、対等なパートナーである事を知っている。でも男は思う通りに女性を動かしてしまう。自分の本能のままに相手に望んでいってしまう。これを抑える事の出来ないこの根っこにある自分、自分自身も自分をどうしていいかわからない、こんな自分これを罪深いと感じる。聖パウロは「私をうめく」と言っています。私の中にあるこの怪物のような欲望と自分自身を抑えることができない、そしてその欲望のままに人を自分の思う通り操っていってしまう、これが罪です。自分の回りがどのように動いてもぜんぜん無感動である、こんな根っこにある自分を罪深いと感じる。この罪深い自分を変えていってくださるのは誰なのですか。主よあなたしかいない。神様しか私のこの暴れ狂う欲望から解放してくれる方はいない。いかがでしょう。これが私たちの信仰なんです。私はイエス・キリストというお方によって救われる。イエス・キリストを通して救いがある。あの方が私の暴れ狂っている欲望、根っこにある私自身を変えていって下さるお方、あなたを信じます。あなたを通して新しい生活が始まります。どうかこの私をすっぽり包んで新しい私に変えていってください。
 今、カトリック教会で一番大事なのは一人一人の信仰者が目覚めていくことです。もう一度立ち返ること、霊的な生活に生きること、それだと思います。あまりにも行事とか組織とか形とか、そういうものばっかりにこだわっている。これが今の教会の一番大きな問題でしょう。感性が鈍くなっている自分に気付かなくなる時にスキャンダルが起こります。教会を下から揺さぶるスキャンダルは、一人一人の信仰者がもう一度信仰の原点を見つめる良い契機と考えたらいいのではないですか。今の教皇様の一連の手紙を読みましたら、それがはっきりと読み取れます。
 私は、組織がいらないとか、巡礼がいらないとか、行事がいらないとかそんなことを言っているのではありません。今朝の説教でも言いましたように、行事をするならその行事の真ん中にイエスを置かなければいけません。会議をするなら真ん中にイエスをおかなければいけない。単なる会議のために会議をしてはいけないのです。行事のための行事をしてはいけない、そこに魂と息吹を吹き込む必要があります。
 「メタノイア」、悔い改めるというのは、福音にあるイエス・キリストの考えによる生き方に自分を変えてみますという決意を表わしております。
 自分の根っこにある嫌な自分、本当に嫌な自分に気付いたら、赦しを願います。これが謙虚な信仰者のあり方なのです。
 今、赦しとか、癒しとかが書店に溢れています。今の日本人は本当に赦しとか癒しとかを求めていると思います。森林浴癒しとか、イルカによる癒しとか、聖なる予言とかいっぱいあります。聖なる365日とかいう本もでています。これだけ永く伝統の中でカトリック教会は赦しと癒しを非常に大事にしてきました。今それを捨ててしまっているのです。形だけ許しの秘跡があるのではだめです。宗教の本質、核心に触れたら、赦しとか癒しが非常に大切であるということを私達に気付かせてくれます。
 よろしければ先ほど言いましたカルロ・マルティーニの「宣教者を育てるイエス」、幸田神父の「赦しのカ」を一度お読みになってくだされぱいいかなと思います。

3:確固たる信念を持つこと
 本当に腹の底から知る、それは変わるということに通じます。変わった人は信念を持って立つことができます。現代教育の目的は、責任説明が出来る人間を育てるということが言われています。きちんと自分がしたことを責任をもって人々の前で説明が出来るということ、それから情報開示、この二つが教育の一番大きな基本と言われます。第2バチカン公会議以後に設立された、カトリック教育省はカトリック教育の目的はきちんとした責任説明が出来る人間を育てるということを目標にすると主張しています。
 信仰を持つというのも同じことです。自分の信じていることをきちんと説明できるようになっていくこと。これだけです。
 ヨハネの13章を読んでみますと、私は真理について証しするためにこの世に生まれて、そのためにこの世に来た、と言っております。弟子たちにも同じように真理を証しし、伝えるようにと言っています。
 真理を証しする人、殉教者をマルティルと呼んでいます。殉教者は真理を証しする人です。キリストの弟子なのです。胸を張ってキリストのことばを伝えていく人、これが殉教者です。だから殉教者というのは信仰を守り通した偉い人程度くらいの意味ではありません。祭壇の前に殉教者の御絵を飾ればいいというようなものではありません。その人が何を証ししたのかを良く分かった上で、私の生活と関わらなければいけないということを教えております。殉教者達は真理を証しするために、この世に遣わされたこと、受難したこと、聖霊の光のままに自分の信仰を語ったこと、こんなことを理解しないといけません。
 私達は、迎合、迎合なんです。現代世俗主義が横行していてこの世に教会も迎合してしまうのです。この世への適応が迎合にすぎず、その実、自分を守る保身の術になる危険があります。こういう時代であるからこそ私達に殉教者は問題提起をしてくれております。殉教者達は預言者であり、現代の社会に対し痛烈な批判を放ちます。その結果はその人を孤独にしたり追いやることにもなります。
 1995年、タイム紙が特集として「時の人、ヨハネ・パウロ二世」という特集を組んでおります。タイム紙はカトリックに全然好意的ではありません。むしろ反宗教の色合いが濃い雑誌だと思うのですが、その中で特集号としてヨハネ・パウロ二世を取り上げています。ヨハネ・パウロ二世は混沌とした現代社会の中で、いかなる批判があっても頑固として自分の持論を押し通していく。現代必要なのはこういう人材なんだということを特集としてとり上げています。
 私は読んだことが無いので分からないのですが、アメリカでファザーレスアメリカ「父親不在のアメリカ」という本が売れているそうです。今、日本でも父親不在が問題にされております。林道義「父権の復権」(中央公論杜)という本がよく読まれている本です。彼は、現代社会は父親不在、父親の権威の喪失の時代だと言っています。今の日本の社会の混乱の大きな原因の一つはこれであると主張しています。たとえばこんな例を出しています。ゴリラは子供が生まれると、雌ゴリラが24時間抱いてスキンシップをして育て、時が来たら雄ゴリラがやって来て、雌ゴリラから子供を引き離して森の中にほうりこむ。又ある時が来るとその子供のゴリラを母親の所に連れて行く。母親のゴリラはまた24時間スキンシップをして抱いている、またある時になると雄ゴリラがやって来て子供を離して、これを何回か繰り返して完全に自分の家庭から追放してしまう、ということを言っています。
 東京の武蔵野市の教育白書を以前読んだことがありますが、こういうことを言っております。小学校の一年生の時にきちんとした躾を教えることが出来るベテランの先生をつけていれば6年間は安泰であると。ところが一年の時に優しい、或いは若ければいいという先生を就けておれぱ6年間は大変だと書いております。今、ベテランの先生でも難しいです。教室の中で落ち着かない子供が1人、2人いるともうやっていけない。サレジオ会で不登校の子供のための学校をやっていますが、一つの教室に20人子供がいて、その中の3人、4人が落ち着きのない子供(メルディ)だったらもうやっていけない。どんなにベテランの先生でもやっていけない。じゃ3人、4人のために、20人教室に3人の先生をつけるといったら、経営的にやっていけない。ボランティアで引退した先生に手伝ってもらっていても、引退した先生は体がついていけない。苦労しながらサレジオ会は経営を続けています。
 信念を若い世代に伝える事が出来ない大人世代が、あるいは、成熱しきれない大人世代がウロウロしている、これが現代なのです。うら若い中高校生の女性にまつわりついている、いい年をした男の姿を考えるとぞっとします。援助交際なんて、その女の子達を責める以上に私はいい年をした男達が群がっているその姿に不気味な日本の社会を連想します。
 成熟し切れない大人たちがウロウロしている、そこには教育の原点なんて見つかりません。教会についても、信仰に成熟していない大人がウロウロしていて、それで子供に信仰が伝わるかです。もう一度、信仰の原点とか、きちんとした生き方とか、そんなものを確立しないといけません。背骨が一本どこか足りない。信仰者とはなんでしょう。信仰者とは自分の生き方に背骨を一本持った人です。殉教者とは誰でしょう。自分の生き方に背骨を一本入れた人のことです。
 最近はマニュアル族とか、指示待ち人間とか、若者に対する批判がたくさん言われていますが、まずは私たち自身の世代を振り返ってみる必要があると思います。
 断固とした価値観を伝えていく人として、岐部神父の生涯を簡単に紹介していきましょう。
 岐部神父は1614年、徳川の禁教令で日本を追放されてマカオに行きます。マカオで神父になれないことが分かったのでインドのゴアに行きます。インドのゴアでも神父になれないことが分かって、ラクダの隊商と一緒にパレスチナを通って聖地エルサレムまで歩いていきます。そして、聖地からローマヘ。ローマでイエス会の総長の特別な許可をもらって、司祭に叙階されます。彼はローマに残ればそれなりの人生が送れたはずです。でも彼は迫害の真っ只中にある日本に行きたいと願い、ポルトガルに渡っていきます。帰りの旅は2年の歳月を経てマカオに着きます。マカオに着きますと日本に帰れない事が分かります。どうしても日本に帰るために、マカオからタイのアユタヤに渡ります。アユタヤには当時、山田長政が治める日本人町があります。そこで神父である事を隠して水夫として働きます。こうして日本に帰る機会を待ちますけど、日本は鎖国令を敷いていてなかなか帰る事が出来ません。こうして彼はフィリピンに渡ります。そこで松田神父と共に船を自分で建造します。ところが出発前に船が白蟻に食われていることがわかり、行くのを止めるように忠告をうけます。それでも手当てをして小さな船で松田神父と一緒に日本に向けて出発します。彼はその時に手紙を書いております。ラテン語の手紙ですが、きれいな字で書いております。神の摂理に信頼して帆を揚げて出発すると。これが彼の最後の手紙です。神の摂理に信頼して帆を揚げて出発します。
 着いた日本では長崎に入る事は出来ません。1620年、30年代の長崎はひどい状態です。松田神父は長崎に入りますけれども宿を見つける事が出来ないまま、山を転々と廻り、そして山でのたれ死にしてしまいます。ペトロ岐部神父は東北に行き、水沢を中心として宣教活動をします。水沢で密告されまして、捕まって先ほど言った小伝馬町の牢に入れられ逆さ吊りで死にます。ローマに残ることも出来たし、ポルトガルに残ることも出来ました。フィリピンでもタイでも生活できました。彼はどうしても司祭でありたい。信者達をそのまま残す事が出来ないという思いを捨てることができませんでした。背骨が一本きちっと通っている人生を選んだということです。

4:イエスを伝える
 殉教というのは、真理を証して決して譲れないと、心に決めたことから起こっているということです。初めから心に決めていない人に殉教はありません。信仰を通しての人生観、イエス・キリストを通しての物の見方を絶対に譲れないと感じている、これが大事なポイントになっています。私達の信仰生活でこれは譲れないぞというものが何なのかということを決めないといけないということです。どのように公言するかということは各人の置かれた場所によってちがうでしょう。大事なのは自分が消化したものを伝えるということです。主婦でしたら主婦が伝える場所がある。公に働いている人なら公の場所で伝えることがある。いろいろな状況によって違う、でも違わないもの、それは譲れないものをしっかりと持っていること、それがあると伝わります。消化していない何かよく分かりもしないことではなくキリスト教の基本的な見方で、自分はこれを納得しているというものを伝えていくということです。伝えていきながら徐々に自分のものになってまいります。大切なのは、大切だと思っている信条を自分に言い聞かせることです。例えば教会に来て日曜の話を聞くとしましょうか。聞いて終わりではなく、せっかく聖書と典礼があるのなら、これは本当だな、あの神父が言ったのも本物だなと、ゆっくりと掘り下げてみることです。これを重ねていきますと自分の信仰というものが確固たるものになってまいります。
 聖書の言葉を使いますと、「ことばは人を変える力である」です。ダイナマイトなのです。信じたらイエスさまのことばがあなたを変えます。見方を変えます。あなたを生き生きとさせます。現在、優しさの魔術に日本人はとり付かれているとよく言われています。優しい人という魔術と言いましょう。
 前世紀初頭にベルナモスという作家がいまして、「悪魔の季節」とか「田舎司祭の日記」とかそういう本を書いています。むかし読んだ中で、“優しい人は凡庸である”だったか、“優しい司祭は凡庸である”だったかちょっとおぼつかないのですが、それに似た言葉があったのを覚えています。
 まさにそうだと思います。優しいだけで背骨が一本ないとつまらない。信仰はその優しさの中に、一本背骨を与えます。本当の優しさには背骨が一本しっかりと通っていないといけません。その背骨というのは自分の確かなメッセージを持っているということです。若いか年令がいっているか、かまわない。背骨が一本、メッセージが一本あるかどうかということが大切です。その背骨というのは自分の確かのメッセージでして、あなたが人に伝えるメッセージを持っているということです。
 今、あなたが人に伝えたいと思っているメッセージを何も持たないで信仰生活があると本当に思うのでしょうか。メッセージを持ち、それを消化しないといけません。真理は神への熱い思いの中でわかる。だから先ほど言いましたように感動して知るということを始めないといけません。消化されていないで聞き写しのものだけを口から口に伝えても全然それは伝わりません。その意味で信仰は現代風に言えば理念に基づいた生き方をするとでも言えるでしょう。何か付け足しのように十字をきってもしかたがありません。十字をきるなら、きちっと十字をきったらいい。本当に祈るなら祈ったらいい。大事なのはあなたの信念です。聖パウロは、ローマ人の教会に書いている通りです。あなたがたは祭壇に捧げた肉を食べるか食べないか。食べるなら自信を持って食べなさい。食べないなら自信を持って食べてはいけない。大事なのは食べるとか、食べないとかということで、兄弟を傷つけてはいけない、と聖パウロは言っています。大事なのは、あなたが本当に自分の信念、背骨に従って生き方を選ぶということなのです。
 これは殉教者から学べます。本当の優しさというのは人間としての品位とか、礼儀正しさ、全てを極める判断する力、その中でもっとも弱い人に対する配慮、こういった総合的なものを持つ強さなのです。
 私も含めて現代一番不足している点がこれかなという気がしております。何か弱々しい、いつも人に頼っている信仰者が、数だけに頼って、どうにか形を守った信仰生活をして、教会が守られている。これは変わっていかなければいけない。あなたが変わるように、あなたが背骨を一本持つか、数に頼らない本当に神に頼る、こういう生き方に変わるかどうかという問題提起がされております。
 私達の背骨はキリストです。キリスト=背骨、こんな風に言ってもいいでしょう。キリスト者の私はキリストという背骨を持った一本筋の通った生き方をしないといけません。キリスト=先生、キリスト=道、キリスト=背骨、こんな風に言ってもいいでしょうか。このことのために私は信者になったのです。キリストというお方を本当に自分の背骨にするために信者になった。いや、キリストというお方をどうしても知らなければいけないのです。これこそ私たちの大きな課題なのです。背骨がない人は、自分の勝手な理論だけを押し付けたり、世間並みの倫理観にどっぷりと浸ったり、世間並みの出世欲にちょっと付け足したような綺麗ごとの信仰で満足します。どうでもいいことを後生大事にとっておく信仰であり、生活のほんのちょっとの付け足しで、役に立たないものであるかもしれません。
 核心を伝えないでその周辺のことばかりを伝えている現代、聖職者、信者が右往左往しているこんな姿が目立たないでしょうか。どこか一本筋が通らない何かを感じるのは私だけでしょうか。問題を感じている現代社会、現代社会の中に埋もれている人々に一本背骨を与えて生きよう、これを誓っているのが私達信者ではないでしょうか。彼らを助けるとはどういう意味でしょう。本当に自分の人生を自分で生きていけるような、本当にこの人生に新しい生き方の力を与えていく私達だと思います。あの神父がやってくれる、あのシスターがやってくれる、そうでしょうか。
 先日亡くなりました遠藤周作ですが、いろいろ批判はありますけど私はやはりキリストを求めた求道者でした。長崎の外海町に遠藤周作文学館というのが出来まして、そこを訪れると遠藤周作が求めていたものが、何であるか分かる気がします。彼があの悲しい人間の性とそれに関わるイエスという姿を飽くことなく求めた姿が浮彫りにされます。
 借り着のキリスト教から本物に変わらないといけないということを「沈黙」とか「侍」、「黄金の国」、「イエスが愛した女性たち」、「私のイエス」、という一連の本の中に彼は主張しています。いずれも滑稽なほど惨めで悲しい人間を登場させて、悲しい人間を見つめるイエスの姿を描き出します。一番いい例が「侍」の支倉常長とか豊後の大友宗麟です。悲しい人間の性を、前面に出して、そこにイエスがいる、という主張しているのです。大友宗麟など大分県に行きますと、部下の妻を奪った強欲非道の領主であり、あれだけ栄えた豊後を滅亡させた、いたってつまらない男といった評がたくさんあります。遠藤周作はそれとは別に、温かい愛情で大友宗麟を見ている。私はとても好きです。
 イエスは父のみ旨を果たすために自らを犠牲として捧げました。そのために、あらゆる侮辱や苦しみや嘲笑を凌ぎ、そして沈黙を貫かれます。これが遠藤周作の基本になっております。十字架の死によって自分を捧げる。自分を死に追いやった人のために祈る。いわゆる愚の骨頂なのです。でも私たちの選んだ信仰とは結局のところ何なのでしょう。愚の骨頂を選んだということなのです。それはこの世の人にとって馬鹿らしいことなのです。あえて馬鹿らしい人生観を選んだ私たちの生き方って何でしょう。
 こういった問題提起が次から次へと出てきます。これこそ殉教者の原型であり、これこそ私たちが求めているキリスト者の生き方の理想的な姿、殉教者と言ってもいいでしょう。私たち信仰者もイエスの模範と殉教者の生き方に励まされながら、自分の苦しみとか自分の今そのものを捧げるように招かれています。侮辱とか孤独とか、嘲笑とか人生の苦しみとかを信仰の精神をもって受け入れるように招かれているのです。
 私たちは殉教者なのです。苦しみがあったら喜ぶのです。孤独に耐えること、赦すこと、人のために祈ること、人を助ける生き方をすること、このようなことだと思います。殉教者を敬うということは、自ら殉教の精神を生きるということを現しています。本当にキリストに惹かれて私たちは教会に来ているのでしょうか、形だけの義務を果たすために、ちょっとそれに色合いをつけるために教会に来ているのですか。キリストというお方に惹かれて来る、こういう生き方を知っているでしょうか。
 最後にもう一度、加賀山隼人の話をして締めくくりにしたいと思います。
 加賀山隼人は1566年に摂津の国高槻に生まれました。10才の時、ルイス・フロイス神父より洗礼を受けました。高山右近の指揮下で初陣を山崎の合戦で戦います。明智光秀との戦いですが、これが彼の初陣です。それから後、高山右近が秀吉から改易された時に蒲生氏郷に拾われて会津に来ます。氏郷が亡くなった後は浪人をします。丹波の領主、細川忠興に拾われ、関が原の戦いを戦った後に九州は中津、小倉という所で細川の家老として仕事を続けました。高山右近とか蒲生氏郷とか細川忠興という当時の一流の主君に仕えた人であり織田信長、秀吉、家康とあの時代を生きた人でした。単に律儀な武士というだけではなくて浪人の生活も長いですし、下から築き上げていますから世間を知った、底辺をなめ尽くした苦労人と言えます。細川忠興はこの苦労人、加賀山隼人を自分の家老に命じ、彼に下毛郡(大分県)の郡奉行という役を与えました。
 郡奉行というのは農村の指導をしながらそのモラルを高めたり、税を取ったり、善政をしながら経済的な面でも助けをするという、住んでいる人と直接に関わる仕事です。良くても、悪くても農民と直接関わっています。悪い郡奉行は水戸黄門に出てくる人で農民をいじめます。善い郡奉行は農村の指導をしながら、農民の生活を変えていきます。
 加賀山隼人はこの郡奉行を経て家老になっていきました。善い郡奉行ですと、その地方を善政で治め、人々の便宜を図るものです。実際、彼の下で12人の庄屋たちが全員信者になっております。中津近辺の下毛郡は全員信者になったのです。彼の下にいる人たちはゆっくりと信仰に入っております。面白いことは庄屋が信者になっていても農民が信者になっていない例が多いことです。同じことが会津でもおこなわれています。そのころ彼が良政を施すことができたというのは、たたき上げの人間であるということ、苦労を知っている人間であるということです。
 これが彼の魅力だと思います。イエズス会の神父は彼を評して「貧しい者の友であった。」と言っております。まさにそうだろうなという気がいたします。粗食に甘んじて、決して絹の着物を着ず、上下を差別することなく十字架のキリストを愛した、と報告書は言っています。かなり上級の官僚でありながら人々を愛し、自分に対しては厳しく生きている。十字架のキリストを見つめている。信仰者の姿が見えてきます。
 こういう人だからこそ現場の人々に触れて状況を的確に把握し、適切な助言を与えて生活を改善していくことができたのでしょう。殉教者の場合、殉教の場面ばかりをみてしまうのですが、その殉教に至るまでの彼の苦労と、十字架のキリストを見つめている姿が見えないと、殉教そのものが分からない。これがあの地方の人々が回心する原因になったのです。
 迫害が起こったときに先ほども話しましたように、細川忠興はこういう時世だから時世に順じなさいと勧めます。こんな時世なのだからそんなに難しいことを言わないで、口先だけでも一応、転んだと言えばいいじやないかと勧めます。しかし彼は譲れません。絶対にそれを受け入れることができないのです。“私は織田、豊臣時代の蒲生氏郷、高山右近も全部見てきた。私はもう自分の信念を偽り口先三寸で生きることはできない。”これが彼の思いであり、これが彼の殉教の引き金となります。私は自分を偽ることはできない。もしも口だけで偽れば自分がだめになる。いままでの私の54年間の人生を全部ひっくり返すことになると言っています。
 名もあり、功もあり、地位もある隼人は、イエスというお方の生き方に照らしたかぎり、もはや私は反すことはできないと決意しているのです。これが彼の殉教のたった一つの原因です。
 彼は娘たちへ最後の言葉として次のように言っております。私の話も彼の娘たちへの遺言の言葉で終わらせてください。
 娘たちに噛んで言い含めるように「今後起こる艱難と苦労の中で信仰を保て」と、いうことでした。「しかも人生の全ての苦労を力強く耐えることが全てではない。喜んで耐えることなのだよ」。渋い顔で沢山のしわを寄せて耐えているということではない。自分の人年を喜んで、苦労を喜んでうける。これが十字架のキリストを見つめることなのです。

*この文書は溝部脩司教様の校正と発行許可を受けています。
発行、文責 カトリック愛媛地区信徒使徒職協議会

カトリック愛媛地区信徒使徒職協議会の皆さんが作成して下さったものを掲載させていただきました。
印刷物をOCR処理して作成しましたので,文字化け等があればお知らせいただけると幸いです。