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年間第25主日説教 ルカによる福音(16:1−13)

2004年9月19日
  於:松山教会

今,読まれました今日の福音ぐらい非常に変でわかりにくい箇所はありません。不正をして自分の生活を確かにしようとした管理人を,イエス様はエライとほめているのですから,どうもよくわかりません。

もう少し深く読んでみますと,どうしてほめているのかということが出て参ります。彼が不正をしたからほめているんじゃなくて,たとえ不正であっても何とかして事態を解決しようとしている,この心意気,あるいは別な言葉を使えば求道心というのを,まあほめているわけです。だからこの最後の方では小さなことにも大きなことにも忠実でありなさいと示しています。不正な富にも忠実でありなさいと,こんな風に話して,忠実さとか求める心が大事なんだという話になっております。この管理人は,四面楚歌の中で何か光を見つけて,どうにかして窮状から這い出そうとする,そういう人の姿を浮かび上がらせております。私たちはこれを求道心と申しましょうか,求めよさらば与えられんと,良く私たちは言います。

アントニオ・デ・メロの本の中に次のようなエピソードが載っております。どれかの本に載ってました話です。2人の修道士が旅に出ました。1人の修道士は聖書に書かれているとおり,何も持たないで裸一貫で出発する。もう1人の修道士はひょっとして何かがあるんじゃないかと,いざというときのためにお金を少しポケットに入れて出発しました。で,2人はある川に,氾濫している川に遭遇します。川を渡らないといけません。水かさが増えていて,人夫に背負ってもらわないと川を渡ることができません。背負ってもらって向こう岸に着きますと,1人の修道士は跪きまして「神様感謝します」と,「あなたはすべてを計らって下さいました。」お祈りいたしました。ところがもう1人の人は財布からお金を出して人夫に渡して「ありがとう」と,そして跪いている修道士に「私がお金持ってきたから渡れたんだよ」と言ったとそんな話を載せております。とんちんかんに祈っていれば,何とかなると考えている人に求道心があるとは,私には思われません。漠然と祈って安易に神様にお任せしているなんて考えたりしている,あるいは言ってる人,この人に限って追い込まれると,きっと恨みがましいことをたくさん言う人だとおもっております。本当に任せてないんです。調子がいいところ,格好のいいところだけに自分を置いているからです。
じゃあ,もう1人の人についてはどういう風に考えればいいでしょう。お金を持ってきてやったからって相手を蔑む人も求道心を持つ人と私には思われません。用意周到なんですけど,自分の力で,計算してやったからという自負心があります。その奥には神様の計らいなどということは,あまり考慮に入れていません。信仰はない,と考えてもいいと思います。

私は,サレジオ会の経営の高専の工業高等専門学校の理事長を何年もいたしました。高専っていうのは,人件費が非常に高くつきまして,累積赤字が億に達したという理事長として責任を取らないといけないと。何回も理事会を開いて,ひともめもふたもめもした経験を持っております。たいがい多くの理事は,経済の法則に従いまして,支出を減らして,収入を増やすと,これを考えないといけないということを協調しておりました。すなわち,教員の賞与カットとかベースアップの停止とか,消耗品の購入の限定とか,まあそういう方法でとにかく支出を減らすと。すると,ある神父の理事が立ち上がりまして,あまりにも人間の頭で計算しすぎていて,もっと神様の摂理に信頼しないといけないと,いきり立って説教したのを覚えております。

まあ,彼が言いたかったのはわからないことはないんです。求道心ていうのは,単に金の計算をするんじゃなくて,まず祈って神の助けを求めて,そして金の算段をするものだということ,これにあると思います。もっと突き詰めて言いますと,金の算段をしながら祈るということ。祈るだけじゃ足りない,金の算段を祈りにかえないといけない。こういうことになると思います。すなわち,私たちがしてる仕事そのもの私たちの生活そのものを神への祈りに変えていく,これが大切な課題なんだと。仕事と生活と祈りが分離している,これがとんちんかんな祈りだと言ってもいいのではないかと思われます。こういう説明をしないとあの神父理事が発言したことはその場を非常にしらけさせていました。

私たちは今日,信仰を次の世代に伝えると言うことを考える研修会に参加しています。もし,その私たちに求道する心がけがなければ,何も伝わりません。薄っぺらなうわっつらなどうでもいい信仰を持っている限りにおいて,何も伝わらない。こういうことが言えると思います。私たちは毎日祈って,そして活動します。活動そのものを祈りに変えていきます。特別な長い祈りは必要ではありません。というのは,毎日の生活の中に,そして主日の祈りを生活の中に活かすことです。生活と離れたところで長い祈りをすれば信仰生活が伝わるとは,私にはとても思えません。

短い,けれども毎日繰り返した祈り,仕事そのものを生きる,自分の生活そのものを大切にしている。こういう信仰生活を,この不正な管理人という今日のたとえが,私たちに語っております。その問題を考えながら,今日のごミサを続けていくようにいたしましょう。

(聞き取り:長谷川)