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助祭叙階式説教

2004年12月8日
  於:桜町教会

皆さんの御親族あるいは友人であるこの方は,まもなく助祭団に加えられます。そこで,この兄弟がどのような奉仕の務めを行うために叙階されるかを,ともに考えてみましょう。
 この方は聖霊の賜物に強められ,神の言葉と祭壇に奉仕し,愛の業に励み,すべての人に仕えて,司教とその司祭団を助けます。祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ,捧げ物を準備し主の御体と御血を信者に授けるのです。
 さらに助祭の務めには,司教から命じられたことに従って,信者にも信者でない人にも良いすすめを与え,聖なる教えを伝え,祈りを司式し,洗礼を授け,結婚に立ち会って祝福を与え,死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け,葬儀を司式することがあります。
 助祭は使徒達から伝えられた按手によって聖別され,祭壇に一層固く結ばれて,司教あるいは主任司祭の名によって愛の業に奉仕する者になります。
 このすべての務めを神の助けによって果たし,仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを,示して欲しいと思います。
 ところで,助祭に叙階されるルイジさん,あなたがどのように行動したらよいかを,主は身をもって示して下さいました。助祭は弟子達の中で仕える者となられたイエス・キリストの奉仕者ですから,弟子達の中で心から神の御旨を行い,主に仕えるように人々にも愛と喜びを持って仕えて下さい。誰も2人の主人に仕えることはできません。ですから,あらゆる汚れと貪欲は偶像に仕えることであると考えて下さい。
 あなたは自らすすんで助祭に叙階されることを希望しているのですから,かつて使徒達によって愛の業の奉仕者として選ばれた人々のように,人望が厚く聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。
 あなたは独身のままの奉仕の務めを果たそうとしています。独身生活とは牧者としての愛としるしと励ましであり,また世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。主キリストへのひたむきな愛に駆り立てられ,すべてを捧げてこの生き方を貫く人々は,ほかのことにとらわれず,よりたやすくキリストに結ばれるでしょう。こうして,より自由に神と人々に仕えることに専念し,人々を神によって新たに生まれる者とする業によりよく奉仕することができるのです。信仰に根ざし,これを土台にしてキリストの奉仕者,神の秘儀の分配者にふさわしく,神と人々の前で汚れのない者,非の打ち所のない者として自らを示して下さい。
 また福音の告げる希望から目をそらさないで下さい。あなたは福音を聞くだけではなく,福音に奉仕しなければならないのです。清い心で信仰の秘儀を保ち,口で延べ伝える神の言葉を行いで示して下さい。
 こうして聖霊によって生かされるキリストの民は,神の御旨にかなう清い捧げ物となり,あなたも終わりの日に主を迎えて,「忠実な良い僕だ,良くやった主人と一緒に喜んでくれ」という主の言葉を聞くことができるでしょう。

今少し読みましたけど,このすすめの中で3つの点があります。
 まず助祭は初代教会から決して司教,司祭,助祭という段階の中にあるのではないこと。助祭は助祭としてあるということ。むしろ,司教・司祭,司教・助祭。司教の司祭職にあずかる者,これが司祭であり,これが助祭であるという風に考えたらいいと思います。すなわち,助祭は単に司祭になる前の準備段階ではない。助祭の時代を助祭として生きる,それが大事なことだということを言っております。すなわち,なんとなく上っていくための段階として考えて,助祭の時を過ごしてはいただきたくない。
 2つ目,独身を誓いました。きっと難しさがあるでしょう。いろいろな困難もあるでしょう。誘惑もあるでしょう。でも,キリスト様が神への奉献の生き方を独身として過ごしたと同じように,私たちは自分の独身を生きないといけません。守る独身は役に立ちません。人々への愛と奉仕の中に,燃えるような独身でないといけない。ただ結婚していないという独身だったら,だめになります。問題は自分の中に燃えるキリストへの愛があるか否か,これが問題です。
 それから3つ目,あなたは今日から教会の祈りを唱えることが義務づけられます。義務として考えないで,毎日祈りある生活。私はあえて教会の祈りということのほかに,黙想,瞑想,毎日神の言葉を必ず聞く,こういう司祭生活をあなたにお勧めしたいと思います。ゆめゆめ,ただ,ただただ,儀式があるから出てくるような司祭であってはいけない。毎日神の言葉を黙想し,それによって生かされている,こういう助祭職を生きることを,あなたにお勧めしたいと願っております。

聞き取り:長谷川