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主の降誕日中ミサ説教 ヨハネによる福音(1:1−18)

2004年12月25日
  於:桜町教会

今日の福音から,2つの言葉を考えてみたいと思います。まず1つ目,「初めに言葉があった」。それから2つめ,「その光は,まことの光で,世に来てすべての人を照らす」。2つの言葉をご一緒に考えてみましょう。

1番目,「初めに言葉があった」。言葉というのはどういう意味でしょう。言葉はその人の考え,思いというのが,外に表れたものです。自分の中にあるものを外に表したら,それが言葉となって参ります。聞いている人はその言葉を聞くことで,言っている人が何を考え,何を思って,何を望んでいるかがわかります。
 今日の福音書で,言葉は神から遣わされた御子イエズスであるということを言っております。すなわちイエズス様というお方は,神様が何を考え,何を思い,何を望んでいるかを表しているお方であるということです。私たちの側から言いますと,神様が何を望んでいるかをわかるためには,イエズス様の考え方,イエズス様のものの見方,イエズス様の行動を理解する必要があります。従ってイエズス様のことを書いている聖書,福音書というのを読まないと,神様が何を考えているかがわからない。自分で読まないとわかりません。神父さんの話を日曜日聞いているから,神様の話がわかるとは私には思えません。神様の言葉がそこに書かれているので,そこからイエズス様のものの見方をわかることが,とても大切だということを言っております。
 では神様の思いというのは何でしょう。「万物は言葉によって成った」と,続いて話をしております。神様の一番最初の思いは,そして一番大きな思いは万物を作ること,特にその中で人間を作ること,これが神様の思いでした。私たちがこうして生きていること,周りにすばらしい自然があること,私たちはこのようにしてこの時代を一緒に生きている人たちがいること,これこそ神様の思いです。しかし神様が何を望んでいるかと申しますと,私たちが今を生きること,あなたはすばらしい存在なんだということが分かることをお望みになっておられます。私たちにできることは何でしょう。こんなすばらしい存在に作り上げて下さった神様に感謝すること。これが宗教心の第1です。感謝する心がなくて宗教はあり得ません。

では2つめの言葉です。「その光は,まことの光で,世に来てすべての人を照らす」と,今日ヨハネが言っております。イエズス様は光です。私たちは,光であるこの方を見ることによって,新しい生き方が始まります。新しい生き方というのは,どういう風に始まるんでしょう。神様はどのように私たちに新しい生き方を始めて下さるのでしょうか。続いてこういう風に聖書が言っております。「言葉は肉となって,わたしたちの間に宿られた」。あるいは先週の日曜日にも読まれましたけど,イエズス様は「インマヌエルの神である」,共におられる神様ですよ,と聖書が言っております。すなわち,私たちと一緒にいて下さる神様,一緒にいて下さる神様を通して,私たちに新しい生き方が始まります。上にいて遠いところから命令をしている神様じゃなくて,この中に一緒にいてくださる,テントの中に一緒にいるとヨハネは続けます。
 人間は神様から作られたことを忘れて,自分が一番えらいと思ってしまいます。これが罪の原因です,その結果,自分中心の生き方のために,周囲を争いに巻き込みます。殺人とか,戦争とか,嫉妬とか,こうして人間の世界が騒然とします。分裂します。神様の熱い思いを受けて存在している私たちは,いつの間にか人に負けたくないとか,人の上に立ちたいとか,他を認めたくないとかという罪に落ち込んでいきます。こうして,私たちの生きている世界は泥沼になります。光があるというのは泥沼があるからです。闇があるから,光があるのです。私たちの心の中も泥沼になってしまいます。そして,この泥沼の中から人は手をあげて「どうにかして下さい」というお願いをするようになります。これが,宗教心の2番目です。

私が,自分が罪深いとわかったその時に手をあげる,「神様どうにかして下さい」と呼ぶのです。その人間に,神様はどのようにされるのでしょう。手を差し伸べて上に引き上げて下さるのでしょうか。神様はそれをなさいません。引き上げて下されば,簡単に私は救われるような気がします。泥沼から完全にきれいな世界に立ち上がることができると,簡単に考えてしまいます。
 しかし,神様はそんな方法はとりません。自分の一番愛する御子をこの世に送ります。泥沼のこの世界に,私たちに愛する御子を送って下さるのです。この泥沼の中に神の子が入って下さいます。この泥沼の中で,私たちと一緒に父なる神様に向かって手を差し伸べ,手を差し上げ,救いを一緒に求めて下さいます。なんて複雑なやり方をするんでしょう。だからインマヌエルの神,一緒にいて下さる神なんです。私の調子が良いときにいて下さる神ではありません。私の泥沼の,そのただ中に,いて下さる神様なんです。
 上から引き上げて下されば,いとも簡単なことです。しかし神様はそうなさいません。あえて,このどろどろした世界の中に入ってきて下さいます。それでは救われるために,私たちにできる事というのは何でしょう。ヨハネがこういう風に続けます。「言葉を受け入れその名を信じること」。私が宣教をして,たくさんの働きをして,たくさんの活動をしてと言っておりません。一緒に泥沼の中にいて言葉をかけてくれる,イエズス様の言葉を聞くこと,受け入れること,信じること,ここから救いが始まると言っております。私たちがこうして教会に来るのは,単にサロンではありません。活動の場でもない。お話をするとか友達を作る場でもない。ここは自分と神様の交わりの場所である。神様の言葉をじっくりと聞く場所,それが教会だということです。

では,私たちの泥沼ということについて考えて終わりにしたいと思います。
 偉大な神学者である聖アウグスチヌスは,「幸いな罪」(オー・フェリクス・クルパ)という言葉を叫んでおります。アダムというお方の罪があったからこそ,あるいは人間が罪深いからこそ,イエズス様が来られたということなんです。決して,綺麗な世界に来たわけではない。泥沼の真ん中にイエズス様が生まれて下さったということです。その泥沼を私たちがわからなければ,自分が泥沼であることを,自分が罪深いということを理解しないで,イエズス様がわからないのです。自分の罪深さ,至らなさをしっかりと見つめるとき,そこにイエズス様がおられます。
 こう考えますと,私たちの至らなさ,欠点,過ち,それらのすべてを通して,そこに神様がいる。インマヌエルの神とは,そんな神様なんです。幼子イエズス様は,こんな私に向かって,手を差し伸べておられます。そのイエズス様の向こうに,神様の愛とあわれみと優しさが見えて参ります。私を包み隠して下さるすばらしい愛が,すばらしい優しさが,すばらしい慈しみが見えて参ります。クリスマスに当たりまして,その幼子イエズス様を見つめてみましょう。そしてその向こうにある神様の優しさ,ひいては自分の罪深さ,そんなものに気づきたいものです。

聞き取り:長谷川
司教様確認済