聖香油ミサ説教

2005年3月23日
  於:桜町教会

 本日は「司祭の日」にあたっております。ご存じの通り司祭は司教の司祭職にあずかって司祭となります。従って司祭と司教というのは秘蹟的なつながりを持っております。今日,司祭の皆さんと,司教と司祭の関わりについて考えるお話をさせてください。

 「教会法」の375条にはこういう風に言っております。「司教は神の制定にもとづき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり,教理の教師,聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者としてたてられる」司教は使徒の座を継ぐ者,ペトロとその仲間,すなわち使徒達の跡を継ぐ者であり,この2000年間カトリック教会は統治の形は時代によって変わってはいても,司教によって統治されて参りました。
 司教の権威とは何でしょう。375条には「教えに関して」,それから「典礼に関して」そして「司牧の方針に関して」,司教は絶対の権威を有していると教えています。
 今,司祭は,心を合わせて,自分の司祭職の更新をしました。その更新の中に司教への従順も含まれております。司教への従順というのは,何にでも従うという意味ではありません。3つの事に関して,司教に従わないといけません。「教えに関して」,「典礼に関して」,それから「司牧の方針に関して」。この3つの点に関しまして,基本的な司教のものの見方に同意し,従順である必要があります。あるいはそれを一緒に守っていく必要があります。

 近年,カトリック教会は2つの問題で大きく悩んでおります。その1つの問題は,今まで,というのは少なくとも30年,40年,50年前まで,司教の権限は絶大に大きいと考えられました。司教がなんでも決めることができると思われてきました。あるいは親爺的なパトリアルト的な司教が立派な司教であるという風に考えられていました。司祭には絶対服従を強いました。あるいは,強いることができました。私が知っている司教達は,かなり強大な力と,権限によって,司祭に命令し,信者に従わせることができた時代に生きていました。従って,司教に個人的に許可を受ければ何でもできるという時代でもありました。
 でも,そのころは司祭達も信徒達もそういう時代だと考え,不満があってもそんなものだと考え従いました。今,別の時代が訪れています。司教は,司祭や信徒達の意見を聞き入れ,それに従わなければいけない,あるいは何も一人で決めてはいけないという考え方が強くなっています。これは世俗主義の時代であり,相対的な価値観の時代の影響を受けています。ニューエイジの時代でもあり,ポストモダンの時代でもあります。私たち司祭も,その時代の影響を受けております。
 民主的なものの見方が蔓延して,民主的に全員でコンセンサスがないと上長は何も決めてはいけない時代にもなっております。司教は司祭や信徒に諮らないと何にもしてはいけないということにもなります。

 でも,気をつけませんと「教区は一歩も進まない」という可能性があります。そして司教への従順というのを,根こそぎにしてしまいます。以上のようなことの前に,教会は私たちに確かな知恵を提供してくれております。
 「教会法」の495条はこういう風に言っております。「各教区において,司祭評議会すなわち司教の諮問機関として,司祭団を代表する司祭の集団が設置されなければならない」。この文書に2つのことがあります。1つは司教が何でも自分でやってはいけないということ,もう1つ,司祭は司教と一緒に教区を考えないといけないということ。司教は司祭にどうしても諮問しなければいけない事項があります。その事項は,最後の決断は司教がやるといっています。でも,司祭団の重みということを教会法は訴えております。同じように司祭職にも司教への従順,司教への恭順というのは何であるかということを教えてくれております。何でもすべてにおいてではなく,教区の運営においてある事柄に関しては必ず司教と一致していかないといけないということです。
 先程のこの2つの両極端をさけるため,教会法は司祭評議会とそれから信徒による司牧評議会設置を司教に義務づけております。司教は,信徒と司祭の委員会を2つの両輪として利用して,教区を統治しなければいけません。
 従順というのは,こういう事です。司教と司祭評議会が,一致して決めた方針に対する従順なのです。そしてその方針というのは,先ほど言いました「教えに関して」,「典礼に関して」,それから「司牧の方針に関して」です。これらを司祭評議会は決めていかなければいけません。そしてそこで決定したことに従順があるのです。従順というのは,これらの諮問機関を通して示された司教の意向への従順です。
 これに真っ向して反対で従えないと言うのなら,教区の中で司祭職を奉仕することはできません。ましてや司教への個人的な反撥から従わないということでしたら,はや教区は成り立ちません。司教と司祭はこの3つの点に関して1つになる,これが教会が伝えている2000年の知恵です。私たち高松教区においてもこれに従って行きます。

 そのためには司教は,司祭と信徒の意見を良く聞く必要があります。それから,その司祭と信徒の諮問機関をよく利用しないといけません。名前だけの組織にしてはいけません。同様に,司祭評議会も司牧評議会も自分たちの意見だけ持ってきてはいけません。評議員の方々は司祭の意見を絶えず聴取し,答申しないといけません。信徒の司牧評議員も信徒の意見を必ず収集して,それを司教に答申するというプロセスを経ることが大切です。自分の意見だけでしたら,委員会は成り立ちません。しかし,それを聞いた上で,よく相談した上で,決定するのは司教です。そのプロセスを経ての決定に,司教への従順ということが,先ほど申し上げたように,出て参ります。

 今日司祭の日に当たりまして,司教と司祭との関わりを「教会法」からまとめてみました。
 高松教区のためには,今何がいるでしょう。司教が方針を出せば皆が従うということではありません。司祭達と一緒に1つの方針,特にこの3つの点に関して,「教えに関して」,「典礼に関して」,「司牧方針に関して」,1つの方針を共に共有する従順が求められます。
 この教会の知恵を大切にしながら,私たちは高松教区の歩みの第一歩としたいものです。
このことを,この御ミサの中で司祭相互のためにお祈りしましょう。また先ほども申しましたように,下僕であります司教のためにもお祈り下さい。



    ※司教様チェック済