聖木曜日ミサ説教

2005年3月24日
  於:桜町教会

 今日の第1朗読の中で「あなた達のいる家に塗った血は,あなた達のしるしとなる」という言葉が使われます。「しるし」となる。エジプトで,子羊の血を鴨居に塗った家を天使が過ぎ越していきました。ここから,過ぎ越しと呼ばれています。天使が過ぎ越していった所は,その家の子供は殺されませんでした。過ぎ越していったということは,その人が救われたということを表しております。過ぎ越し祭というのをユダヤではいつも行っておりましたけれど,神が天使を使わして天使が過ぎ越していった,鴨居にある「しるし」を見て過ぎ越していった。それを通して救われたということを表しております。

 現代の「しるし」というのは洗礼です。洗礼を受けた私たちを天使は過ぎ越していきます。水という「しるし」を受けましたので,天使が過ぎ越していって私たちを約束の地に導きます。これが救いです。私たちは救われた民です。こんなに罪深い悲しい性を持つこの私を神さまは救われます。これを感謝する祭り,それが過ぎ越しの祭りです。「この過ぎ越しの夜にイスラエルの民は酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べました。」と第1の朗読で言っております。エジプトを出たとき,パンをイスラエルの民は食べます。「それを食べるときは腰帯を締め,靴を履き,杖を手にし,急いで食べなさい。」と命じられました。過ぎ越し祭ではパンを食べます。イエス様も過ぎ越しの祭りにパンを割いて食べました。パンと羊の血,これが過ぎ越し祭の2つの「しるし」です。今私たちにはパンとそれから血と,この2つが与えられます。それは,私たちは水という洗礼を受けた「しるし」を持っているからです。パンを食べ,血を飲む人はそれによって救われます。約束の地に導かれます。力が与えられます。現代の「しるし」過ぎ越しは,ミサの中で供えられるパンです。
 このパンを食べるごとに,私たちは何を思い出すのでしょう。「このパンを食べ,この杯を飲むごとに主が来られるときまで,主の死を告げ知らせるのです。」と,今日の第2のパウロの手紙で言っております。パンを食べるたびごとにイエス・キリストが十字架上で亡くなったこと,それによって私たちが救われたこと,あの方は私たちのために亡くなって下さったこと,こんなことを告げ知らせます。人々に伝えます。そのために私たちは感謝します。「ベラハーの祈り」と旧約聖書で言っております。感謝の祈り,過ぎ越しは感謝の祈りの祭りです。洗礼によって清められて,パンによって養われた私たちは今救いの道を歩んでいます。

 それでは,救いの道を歩むというのはどういうことでしょう。イエス様は食事が終わって弟子たちの足を洗います。そして,同じことをするようにと弟子たちにお命じになります。そうなんです。救いの道を歩むというのは,お互いの足を洗うことです。パンを食べ,洗礼の水を受けた私たちは,救いの道を歩むためには,この隣の人の足を洗わないといけません。隣の人に奉仕することを学ばないといけません。自分の好きな人たちとだけ,自分の仲間とだけいる,こういう愛し方ではありません。友のために命を捨てた,一番必要な人のために命を捨てた,あのイエス様の愛を生きるために私たちはパンを食べます。ミサに与るたびごとに,私たちは人を愛し人に奉仕するということを学ばなければなりません。これが救いの道を歩むということです。
 今日このミサに与るとき,自分の中に人に対して何か含むことがあれば,赦しを願わないといけません。自分が正しいと思いこんで人を裁いていれば,まず自分自身を正さないといけません。だれもこの教会の場所で人を裁いてはいけません。今日,この聖木曜日の祝日,洗礼を受けて救いの道を歩み始めていること,聖体をうけて素晴らしい力が与えられていること,これらを感謝して私たちは愛するということを誓い合いましょう。教会に生きるということは,愛するということを誓うということです。周りにいる人を大切にすること。人に対しての深い思いやりに生きること。今必要な人に,その人の必要に応えていくこと。自分が思う通りではなく,その人の必要に応えていく,こんな生き方を学ぶことが大事です。

 人の必要に確実に応えることを学び,そして祈るミサにいたしましょう。最後にヘブライ人への手紙の2章を読んでこの話を終わりたいと思います。ゆっくり読みますので後から考える材料にしてみてください。

 「イエスが死の苦しみによって,栄光と誉れの冠をお受けになったことを,私たちは知っている。その死は神の恵みによって,すべての人のためのものであった。神が多くの子を栄光に導くために,その救いの創始者を多くの苦しみを通して,全うさせたということは万物の存在の目的であり,原因である方としてふさわしいことであった。」

 私たちのためにイエス様が神から遣わされたこと,私たちのために死んだこと,これらを考えたら,私たちが何をしなければいけないかという問題を,私たちに提起しております。今日,明日,明後日と三日間にわたって,光と闇を考えさせてくれます。神の恵みによって生きる自分の正しさ,こんなことを考える三日間にいたしましょう。

    ※司教様チェック済