復活徹夜祭ミサ説教

2005年3月26日
  於:桜町教会

 最初,闇がありました。それから,ローソクと光がありました。それから歌がありました。今から水があります。今日はたくさんのシンボルで一杯です。でも今日は「闇」というテーマだけでお話をまとめて,明日「光,復活」というお話をさせてください。

 闇とは何でしょう。闇とは迷いの状態です。今日は,闇から光の道を歩んできました。私たちの心の闇を打ち払ってくださるのは神さまです。私たちが自分で自分の闇を打ち払うことができません。イエスの教えそのものが,私たちの心の闇を打ち破ってくださいます。ということは,私たちはイエス様の教えに心の目を開かなければ,闇が破れないということです。光は見えないのです。自分に光があると思っている人は光が見えません。

 光はここにあります。問題は,自分が開くか開かないか。ここにすべてのものの鍵があります。光は闇があって輝きます。闇を体験していない人は,光のありがたさがわかりません。不夜城のような現代社会は光がとってもわかりにくいです。闇が暗ければ暗いほど,星の輝きは美しく輝くものです。私はソロモンという島で,新しく宣教地あるいはサレジオ会の教会並びに学校を創設いたしました。そのとき最初に行きましたときに,空の星がどんなに綺麗かを自分で体験したような気がしております。その昔若かった私はアルプスで遭難したことがあります。アルプスの氷の崖をくだらないといけなかったこと,道に迷ってしまったこと,下山してそして暗くなって真っ暗闇の中を歩いて,その向こうにぽつんと山小屋の光が見えたときにどんなにうれしかったか。いまでも,その感動を忘れることができません。次の日捜索願が出ていたのを私は知って,ひどく私の院長から怒られたのを良く覚えております。

 聖パウロはこの闇というのを,「うめく」という言葉で表しております。聖アウグスチヌスは「幸いなる罪よ」と叫んでおります。人の罪とか,過ちとか,悲しみということを知らない時に光は見えません。きれい事を言っている人は光が見えません。どろどろとなった自分の中を見つめるときに初めて光が見えます。教会は綺麗なことを語り合う場所ではありません。過ちと汚濁の中でうめく人々の集まり,それが教会です。罪をなめあうために私たちは集まっているわけではありません。キリストという光によって立ち上がるためにここに集まっております。今復活祭をお祝いする前に,自分の心の一番深いところを見つめてみましょう。何があるんでしょう。その一番深いところを清められたときに,初めて光が見える,こんな事を私たちに,今日の祝日は考えさせてくれております。

    ※司教様チェック済