津和野・乙女峠祭りミサ説教

2005年5月3日
  於:津和野・乙女峠

 今回2つの点につきまして,お許しをお願いしたいと思います。暑い中にここに座っておられる方,それから立っておられる方,普通私は説教は10分を超えることはありませんが,今回は20分にお願いいたします。忍耐をお願いしたいと思います。それから2つ目ですけれど,すごく信心深い話で熱心に燃え立たせるような話ではなく,どちらかといえば歴史の話かも知れません。帰ってから後で,私の話をみなさんで話し合って下さったら良いかなと思います。

 まず第一点です。1868年に浦上の中心人物の114名が,3カ所に配流されて参ります。それから1870年に浦上の全住民の3460名の方々が,20の地方,20の藩に流されます。こちらにも浦上から見えていますが,浦上の全住民が流されていきます。彼らが浦上に帰ったのは1873年のことですので,考えてみれば5年の月日なのです。5年は短いというのか長いというのか,なんと言えばいいのでしょう。
 でもこの5年間というのは,教会にとってはとっても大きな意味がありました。同じように,明治の新政府にとってもこの5年間は画期的な5年間でした。それから浦上の信者を受けとった諸藩,例えば津和野藩にとっても大きな試練の年でもありました。
 だから,この5年間というのは,やはり大変な年だと言っても良いと思います。これを浦上4番崩れと申しておりますが,私たちは浦上4番崩れを,ただカトリック教会の受難物語としてだけ受け止めていたら,内容がわからないかも知れません。
 日本の歴史が転換期にあったそのときに起こった出来事なのです。そして今,私たちは新しい教皇様と同時にカトリック教会にとっても大きな転換期にあります。それから日本の政府も,日本の社会も大きな転換期にあります。そういう視点から,浦上の4番崩れはどういう意味があったのかということを,今日みなさんと一緒に考えていきたいと思いました。

1 「王政復古」「五箇条の御誓文」
 まず明治の元年から明治の5年なのです。すなわち明治政府が始まった年の5年間です。この5年間では,教科書で何回か聞いたことがあるでしょうけれど,「大政奉還」とか「王政復古」ということが叫ばれました。その中で「五箇条の御誓文」というのが出されたわけですね。今私は歴史の教科書の繰り返しをしたいわけではありません。日本を武力で統一して,その統一する原則は天皇を中心とした国を作ろうと考えたことであり,その国作りに励んだのがこの最初の5年間でした。この時期に浦上のキリシタンがここで迫害されたというのも,偶然ではありません。1つの大きな歴史的な意味を持っておりました。
 この時代の日本は,新しい国というのを考えておりました。どんな国を作ればいいのかということで迷っておりました。現代の日本と同じですね。今,日本はどんな国を作ったらいいのかわからない状況にあります。国是,すなわち国が存在する意味が分からなくなっています。何を目指したらいいのか,どこに自分たちの主張をおいたらいいのか分からなくなっていました。そういう状況の中でキリシタン対策をどうしたらいいのかということが分かりませんでした。これが明治政府の苦悩です。
 このときに日本全国,特に長崎で有名になりますが,「五榜の高札」というのが立てられます。5つの禁止事項が書かれた高札が立てられる訳ですね。その第三条は「キリシタン禁制」ということが謳われます。すなわち「キリシタン邪宗門厳禁」と。まだ邪宗門と,徳川時代のものをそのまま受け継いで考えていました。しかし,実際はそうではありませんでした。この五榜の高札の第四条でこういう風に言っております。「外国人を保護し開国に向けていく」というものでした。すなわち,中では攘夷を叫ぶ侍達がたくさんいました。外国の勢力に負けてはなるものかと言う人たちが,たくさんいたのですね。明治の新政府はこの人達をどう扱っていいかわかりませんでした。外圧,当時外国から攻めてきた,外国からやってきた国の人々は,日本の政府に強く働きかけて「港を開くように」「貿易をするように」と攻めます。外圧のことです。日本の政府は,この外国の圧力と内部の争いとの中にあって,どうすればいいのか分からないままキリシタン問題を突き付けられました。この人達は何なのか,日本人なのか,外国人なのか。日本の政府の言うとおりに従うのか,外国の宣教師の言うとおりに従うのか,この人たちのことが分かりません。それは分からなかったわけです。殺すこともできない,殺せば外国が文句を言う。でも黙って見過ごすこともできない,攘夷の人たちが騒ぐ。じゃ仕方がない,次善の策として流しましょうということになりました。長崎を離れさせればどうにかなると考えたのです。これが浦上4番崩れの最初でした。

 「復古」,昔に戻ることと,「開化」,新しい世界に開くこと,この両方を行ったり来たりしている5年間が明治政府でした。その行ったり来たりしている中で,浦上のキリシタンも行ったり来たりしないといけなくなってしまいました。なにか聞いていたら,教科書のおさらいみたいな感じがすると思うんですけれどお許し下さい。これが4番崩れの背景です。

2 「官制改革」
 1869年,明治2年に「官制改革」というのが行われます。すなわち,日本は古い封建制から,新しい三権分立の新しい近代国家を作ろうとします。そのためには,大臣とかその他を決めてかからないといけません。これが「官制改革」というものです。その中心になるのが,「太政官」といって,今で言えば首相を長におく組織です。問題は大統領をどうするかです。そういうこともありまして,この「太政官」の上に「神祇官」というのを置きました。すなわち,首相の上に天皇を置いたわけです。天皇制を考える人たちをそこにつけて,新しい部署を作ったわけです。
 基本的には,日本は天皇を頂点とした神道国家であること,天皇は祭政一致の主君であること,これを目指したのです。すなわち,いままでの徳川政府の下にある天皇ではなくて,徳川も全部含めた一番頂上にある,それが天皇であり神道であるとの考えです。そこで古い制度に則りまして,神祇官が神道によって祭典を行います。それから「宣教使」を日本全国に使わします。せんきょうし,「し」というのが「使い」なのですね。私たちが宣教師というのは教師の師ですけれど,これの場合は「使う」の字です。宣教するために使われる人達が全国に送られます。伊勢神宮を総本山として傘下に全国の寺社をおきまして,その寺社が地方の行政の中心となって参ります。
 では,この宣教使というのは日本全国に何を伝えていったのでしょう。日本の人々に,日本は神国であること,神の国であること,これに準じて天皇を中心とする国作りに励まないといけないこと,これを伝えたのです。

 では問題は何かということです。それは神道とは何かということでした。当時,神道とはなかなかよく分かりませんでした。ただ,日本は神道によって成り立っているということだけは分かっていました。でも,神道とは何かということが,この頃議論されていました。普通に,日本人の頭の中では,神道というのは「生活の中に根ざしたお祭り,あるいは儀礼,習慣のようなもの」という風に考えられておりました。だから,村の中で神道の祭りがあって,宮太鼓が鳴らされるという,お祭り位にしか感じていませんでした。でも,この祭りで日本の国を統一するというのは難しいと,多くの人々は考えておりました。そこで,日本は神国であり,この天皇の祖先は天照大神であり,この天皇は,昔の天皇,昔の神様と血を分けた為政者であるという風に考えるようになりました。こうして「万世一系の神」ということを謳います。幕末の志士たちは,血を分け合った神に近い天皇のために,新しい国を作らないといけないと主張し,こうして攘夷,外国を排してでも新しい国作り,神の国を作るという理念に燃えていきました。この考えに沿いまして,昔に戻れと叫ぶようになりました。「創業の初めに戻る」と何度も言います。幕末の志士たちが何度も言った言葉です。その昔というのは天照大神に帰るということです。

3 「大教宣布の詔」
 この最初の神祇官というのがこの津和野藩の藩主の亀井茲監(これかね)でした。この神国を作るということに一番熱心な人だったわけです。そしてその家臣である福羽美静(ふくばびせい)という人がいまして,彼が具体的な理論を作っていく人になります。どうして,この津和野藩にキリシタンが難しかったかという意味が,少しお分かりになれると思います。これらの人々は,確信を持って日本の国を作らないといけない,神国日本,天皇を中心とした国作りが必要だと信じていました。これに対してキリシタン達はどんなに反応したでしょう。彼らをいらいらさせなかったでしょうか。
 こうして,1870年,明治3年に「大教宣布の詔」というのが発布されます。すなわち天皇が国家の祭祀の中心であり,頂点であること,その教えを積極的に日本全国に広めないといけないということを知らせます。こうして,明治4年,1871年に「大嘗祭」というのが行われます。大嘗祭というのは,何回かお聞きになったと思いますが,代々の天皇に引き継がれた天皇の霊が,新しい天皇に改めて継承されるということを表す儀式のことです。これには公家とか臣民があずかるだけではなくて,平民もすべての人があずかります。どのような形であずかるのでしょう。「直来」(なおらい)というのがありまして,その直来の式の中で,天皇は天照大神を中心とした神々と一緒の食事をします。食事をして,その食事でもらった餅を,人々にまた配るわけです。この人々に配る式を,「豊明節会」(とよのあかりのせちえ)と言いました。すなわち,天皇の食事に臣民が全員あずかるのです。これが大嘗祭です。天皇と一緒に食事をする日本国民は,新しい国を作る立役者であり,選ばれた民なのです。日本の国は,天照大神を初めとした日本の神々とつながっているということを表した儀礼です。しかもそこに地球儀を1つ置いたのです。地球儀でもって,世界の中心は神国日本であると,日本を中心として新しい世界が生まれると言明しました。明治の1年から明治の5年まではこういう年でした。
 明治3年に政府は宣教使を全国に使わして,徹底して神国日本ということを知らせようとしました。ちょうど,明治3年にこの津和野でたくさんの人が死んだということと符合しています。明治3年が配流者の中で死亡者が一番多かった年というのは,偶然ではありません。旅の疲れだとかいろいろな原因がありますけれど,キリシタンの説得に一番情熱的に傾けたのが明治3年であり,その時に一番抵抗したのがキリシタン達であったということ,これを私たちはわかることができるのです。

4 キリシタンの姿勢
 私たちはこの時代というのを少し分かって参りました。ではキリシタン達はこの教えに対してどういう風に反応したのでしょう。
 神国日本ということに納得できなかったのが,ちょうどこの津和野にいたキリシタン達でした。浦上の信者さん達でした。国の権威を認めることには,やぶさかではありませんでした。天皇を認めることにも,やぶさかではありませんでした。でも,天皇が神であるということを認めることは,決してできなかった。これが,キリシタンの一番大きな抵抗の原因であるということですね。すなわち,明治政府が一番中心にして,一番力を入れたところを拒否したということになります。これはいらいらさせたのではないでしょうか。長崎の百姓ごときがなんだと,いう気持ちが官憲にはきっとあったと思います。現代風な表現を使いますと,「信教の自由は人間本来に根ざした根本的な権利であり,いかなる権力も人の内面,良心には立ち入ることができない」と主張したのです。
 こういう風に考えたら浦上の4番崩れは,単に教会の中で熱心な信者だったという意味以上のものが,お分かりではないかなと思います。もう少し忍耐を持って聞いてくださいますか,あとちょっとで終わりますので。

 ところがこの観点もカトリック教会側のみで判断したら,間違うかもしれません。一律に当時の政府が悪かったとか為政者が暴力的であったとか結論することでは足りません。真摯に国作りを考えたからこそ,こういう諍いが起こったということです。ある意味では私たちはカトリックの信仰を持った者として,今,現代の日本の国作りについてどのように考えるか,こういう事が問われているのかも知れません。
 同じように,改心者とすなわちキリスト教を一度転んだそしてもう一度改心戻しをする人と,転ばなかった非改心者の間には争いが多かったということを,たくさんの本が書いております。ただその対立の構図だけでもありません。拷問がひどかったということも言われております。これら全部について,今一度考えてみる必要があると思われます。大きな視点で考えてみたら,そんなことよりももっと大事なことがあるかも知れないというものの見方ですね。
 拷問に関しましては,流された藩によって対応がずいぶん違っております。この津和野藩と他の藩とは全然違います。四国の諸藩,例えば香川県なんかは全然違う対応をしております。一概に政府を責めることもできませんし,改宗者,転んだ人を責めることもできない。いろいろな問題がそこにあるからです。でも日本の歴史という視点の中で浦上4番崩れというのを考えますときに,私たちにはずきんとする問題提起をしてきております。それは何でしょう。

 それは国家のために宗教があるのではないということ,宗教または信教の自由があって国家があるということです。国家権力でもって信教の自由とか個人の良心にまで侵入してきて当然だというものの見方が,今まで,現在この時点まで,日本の歴史は当然のように受け止めてきました。この見方に対して,断固として戦った人たち,これが浦上4番崩れの人たちと,私は声を大にして言いたいと思います。
 キリシタン時代以来,国家の枠の中で宗教が許されるという考え方が定着していました。1587年の時も,1614年の迫害令の時も,それから明治政府になって明治憲法においても政府の枠の中に許されるという歴史の認識が,私たちの日本の社会の中にずっと定着してきました。それについて私たちは信教の自由,個人の自由,内面の自由等ということにほとんど気付かず,当たり前のように生きてきました。
 これを譲らなかった浦上のキリシタン達,この人達は信教の自由を勝ち取った人々と言っても良いと思います。忍耐強く抵抗して,その生き方,信念を貫いた人々です。国民としての務めを果たし,良き市民として良心的に生きているけれども,こと信仰に関しては,すなわち個人の内的分野に於いては,誰にも強制されることはないと誰の前にも公言してはばからなかった人たちです。だから死んだ,死なないと言うよりも,この生き方,この自分の個人の自由というのを大事にしたこの人達を尊敬したいという気がしております。
 私たちは今ほど自由な時代に生きていて,それの大切さが分かっておりません。私たちの先達達,浦上の信者達が,身をもって体験し,信教の自由を勝ち取ったという意味を,私たちは分かっておりません。あの人達は,私たちの身代わりになって英雄的に信教の自由というのを表明してくれました。そのために,私たちは,今自由な時代に自分の信仰を100パーセント表現して生きておれる,ちょうどその時代に私たちは100パーセント信仰の自由を表現しないで,どこか隠れて生きようとしている,隠れキリシタンになって生きようとしている,こんな矛盾の中にあります。今更殉教者だなんてとうそぶく人々がいますけれど,この自由というのは殉教者のその血によったものであると,私たちは叫ぶことができます。

 結論です。難しい話をしましたけれど,これでもう殉教がなかったとか迫害が厳しくなかったとかいうことを言うつもりは毛頭ありません。ここには確固とした信仰を生き抜いた人たちの物語があって,後生に生きる私たちへの素晴らしいメッセージがあります。津和野のキリシタン達がこの良い例だと思います。
 例えばこの藩では,非改心者の死亡率が断然高いのです。そのパンフレットの最後に32名の殉教者というのが載っていますね。32名のうち男性が21名です。女性が11名です。転んだ,いわゆる改心したという人の中で,死亡者は2人に過ぎません。2人のうちの1人が男性でもう1人が女性です。すなわち,転ばなかった人の死亡率が断然高いということです。転ばなかった非改心者の男の数は44名ですから,44名の21名が死亡しているということ,すなわち44.7パーセントが死亡している。半分は死んだということです。同じように女性は30名ですから,30名のうち11名が死亡しております。36.7パーセント,すなわち津和野に流された浦上の信者で,自分の信仰を転ぶことができないと誓った人たちの半数は,もう浦上に帰らなかったということを表しております。それがどういう事を表すでしょう。この中の半分がいなくなったという風に考えたらどうでしょう。
 津和野では,どんな国家権力で脅しても決して屈しなかった気骨のある抵抗があったということを表しております。そして,現代の我々に欠けている点です。彼らの気骨ある戦いこそ,今我々が享受している信教の自由の発端になったということを,感謝しなければなりません。同じように背骨の一本通った私たちの信仰ということを,もう一度自分に問い直していかないといけません。

 津和野のこの乙女峠の祭りの中で,少し考える材料をみなさんに提供申しました。あとから気が向いたら,お互いに話し合いをして下さればうれしいと思います。

    ※司教様チェック済