三本松ルルド祭ミサ説教

2005年5月8日
  於:三本松教会

 ルルド祭ということですので,今日は昔のキリシタン時代のことをお話ししたいと思います。昔のキリシタン時代でも,ヨーロッパの信心会ということにならいまして,日本教会も「組」というのを早くから組織していました。日本には「講」というのがありまして,恵比須講とか,いろいろな講というのがあり,ヨーロッパの組の導入にもそんなに抵抗があったわけではありません。任意で集まった信心会で,ときどき日本の講は賭け事になったりしておりました。
 キリシタン時代,早くからこの組というのが始まっており,特に「ミゼルコルディアの組」は非常に早い時期に始まりました。それからドミニコ会が来てからは「ロザリオの組」,あるいはフランシスコ会は「コルドンの組」を組織しました。コルドンといったら帯のことでフランシスコ会は帯を垂らしていたので,「コルドンの組」と呼んでいました。きちんと記録が残っているのは,イエズス会の作りました「サンタ・マリアの組」で,その内容がはっきりと分かります。
 お互いの信仰を深める互助会のようなものでしたが,後,迫害が起こってきましたら,殉教を準備する「殉教の組」のようなものに変わって参ります。具体的には信者が自分たちで組織して,教会を守っていくということでした。ローマのカサネテンセ文書館というところに,「サンタ・マリアの組の掟」という日本語で書かれた1枚の紙が残っていて,これを読みますとどのように組ができているかということがよく分かります。どういう風になっていたでしょう。有馬というのは今の島原半島ですが,この「掟」はそこで書かれたものです。50人一組で「小組」(しょうぐみ)というのがありました。小さな組があってその小組に1人責任者がいました。これを「小組の親」と言ったのです。さらにこの小さな組が集まりまして,「大組」(だいぐみ)になります。この大組にも「組の親」というのがいました。さらに大組が集まりまして,島原半島に1つ「親組」というのがあったのです。島原半島全体の会長が1人いて,それを「組親」と言っていました。これらの組の親を通して,教会を保っていくわけです。神父さんは,実際は,組の親としかつながりを持っておりません。組の親と話したり,それから,キリスト教の基本的な勉強会を持ったりします。教会を実際に維持していくのは,全部組の親たちでした。この組の人たちが迫害の中では教会を守っていきました。

 どんな風にしていたでしょう。毎週一度の集まりをもち,祭壇を綺麗に飾りまして,その上にお花を置いて,それからその前でロザリオの祈りを唱えておりました。また,その後に霊的読書というのをしていました。そのころキリシタンの本が日本でも出版されていましたので,霊的読書をしていました。霊的読書をした後,その本についてみんなで分かち合いを持つということもしておりました。この組の組織には司祭がいませんでした。信者がこういう風に教会を守り,神父さんは巡回しては赦しの秘跡とごミサをするだけでした。あとは,全部信者がやっておりました。教会の中で,例えば死者が出たら,死者を葬るということ。それから貧者がいたら,貧者のためにお金を渡すとか。互助会ですからお金を集めて,そこからお金を貸したり,貧者にあげたりと,こんな仕事をしておりました。さらに勉強会も一緒に分担してやっていました。子供の勉強なども全部信者さんがやっていました。組の親は「談義者」とも呼ばれていました。だんぎしゃ,だんぎというのは話をすることですね。一番有名なのは,東北の米沢教会にいた甘糟右衛門ルイスです。彼は上杉藩の家老でしたが,信者の代表で組の親で談義者と呼ばれています。談義者というのは何をするのでしょう。主日は必ずしもミサがあるわけではなく,司祭ががいなくても神に感謝と礼拝を捧げる,こういう事を主日にはするものです。その集会祭儀を司式していくのが談義者なのです。その談義者が集会祭儀の中で勧めの言葉をあげたり,福音についての解説をしたりします。それが終わりまして,「輪座」といって,みんなで輪になって座って,今聞いたことを分かち合っていくことをしていました。
 浄土真宗の影響を強く受けている日本の教会が,ここには見られます。神父さんがいないから主日の礼拝をしないなんて事は全然なかったのです。司祭がいなくても十分やることができました。この組の親たちは手分けして,洗礼を授けたり,結婚式の司式をしたり,それから死者を葬るということをします。だから司祭なしでも,この人たちは教会をこういう形で守っていました。実際,300年たった後,長崎浦上のキリシタンが,1867年にプチジャン神父と会ったときには,彼らは組の組織を持っていました。「教え方」教える人,「水方」洗礼を授ける人,「繰り方」典礼の暦を操る人とこの3人が一緒になって,教会を守ってきました。しかも300年司祭不在なのです。これも組の組織がしっかりしていたからです。
 大分市の端に坂ノ市というところがありますけれど,30年ぐらい前にそこに1つの瓶が見つかりました。土の中に埋められていた瓶で,その瓶を開けましたら,そこにたくさんのロザリオとか十字架が見つかり,そしてその中にもう1つ瓶があって,その瓶の中にホスチアが,もうぼろぼろになっていますが,ホスチアが残っていました。それは今長崎の26聖人記念館に置かれております。ちょうどそれが見つかったとき私は大分にいたので,どうして大分から長崎に持って行くのかということでだいぶもめたのを覚えています。当時の神父さんは巡回でミサをたて,ホスチアを教会に残していったわけです。1年間にあと何回来るか分からない,でも信者さんの代表,談義者はホスチアを毎週配るということができたわけです。

 少し司祭という問題を考えさせてくれております。司祭はカトリック教会にどうしても必要です。でもすべてに司祭が必要であるわけではありません。信徒は洗礼を受けたそのときから祭司職を持っております。司祭の祭司職すなわち秘跡による祭司職と違いますが,洗礼を受けた信者はみな祭司職を持っています。必ずしもすべてのものに司祭がいる必要は毛頭ありません。すべての勉強会に,すべてのことばの祭儀に司祭が必要であるわけではないのです。
 歴史から分かることは,これらの組からほとんどの日本の殉教者が出たということです。昔の宣教師達は,組を作ることで信徒を育成したということを,私たちに分からせてくれております。今の私たちの教会を考える良い材料となっております。カトリック教会はクレディカリズムといわれる,司祭中心の教会の姿もあります。第2バチカン公会議以降,信徒による教会ということを教会は強く打ち出しております。でも信徒の育成というのがきちんとされていないので,教会という意味がなかなか分からず,神父さんにべったりという教会から脱けきれない危険があります。

 私たちは今日マリア様のお祝いをしております。単なる美しいマリア信心の行列をしているわけではありません。昔の組,「サンタ・マリアの組」ということを考えましたら,血を流してでも守り抜いていく信仰ということを考えさせてくれております。私は殉教するとしても信仰を守り抜くと決意した,これが「サンタ・マリアの組」の掟でした。私たちはこういう殉教者,あるいはその足跡を歩む後輩として,先達たちの信仰をもう一度掘り起こしてみるマリア祭にしたいものです。

    ※司教様チェック済