聖霊降臨祭ミサ説教 ヨハネによる福音(20:19−23)

2005年5月15日
  於:中島町教会

 今日の第1朗読の中で、五旬祭の日に聖霊が降ったと申しております。五旬祭の日とはどういう日でしょう。過ぎ越しの祭りが終わる日、これが五旬祭と申します。これは刈り入れの日です。復活祭の実りが刈り入れられる、これが五旬祭です。だから、聖霊降臨というのは、主が復活した後に、今その実りが現れる、その日が聖霊降臨の日という風に考えます。ということは、聖霊降臨というのは新しい出発の日です。何が出発するのでしょう。何が起こるのでしょう。復活の実として弟子達が自立して歩み始めることをあらわす。今までイエス様にべったりくっついて、イエス様と一緒にいればどうにかなると思っていた、その時イエス様が去っていきます。先週、御昇天の祝日に「私はあなた方のもとを離れる」と申して去っていきます。離れたあと一週間たって「あなたがたは自立しなさい」、「自分で歩き始めなさい」というのが聖霊降臨祭です。

 教会は、ただくっついていくだけの人によって成り立っていません。私たちは「指示待ち族」ではありません。1人1人が神様の思し召しに従って立ち上がる、生きる、これが聖霊降臨祭です。すなわち、これが教会の始まりです。教会の始まりというのは、1人1人が自立して、自分の信仰の道を歩み始める日のことです。だから使徒行録は次にように続けます。「炎のような舌が分かれ分かれて現れ、1人1人の上に留まった」と。「1人1人の上に」と言っています。教会には偉大な指導者が現れて、それでみんなが団体で動くなんて考えておりません。ある人を偶像のようにしたてて、その指導に一斉に従うことでもありません。縦割りの構造を教会が考えているわけではありません。教会を造っているのは、そこに属している1人1人なのです。ここにいるみなさん1人1人が教会です。聖霊降臨祭に聖霊を受けて新しく自立した道を歩み始める、これが教会の始まりです。1人1人が語る言葉をもつように、聖霊が降って参ります。舌をもって現れたというのは、言葉をもったということです。今このミサの中で聞いてみてください。聖霊があなたにどんな言葉をもって話しているか。なんとなくのほほんとミサに与って、聖霊降臨祭が終わったという、こんなミサの与り方をしてはなりません。

 私たち1人1人に聖霊が降って、私たちを中から変えていってくださいます。大事なのはこういう事です。構造が変わるとかというより、その前に私たちの中が変わらないといけない。「霊が語られるように国々の言葉を話した」というふうに続いております。私たち1人1人が教会を造っています。私たち1人1人は自分の言葉をもって語ります。誰に?私たちの周りの人に。現代社会を生きる人々に、自由に話が出来るのです。誰かに言われたとおりに、その言葉をオウムのように繰り返すのではありません。私が信じているその言葉を、しっかり伝えていく、これが大切なことになって参ります。ここに神父がいるから神父に任せればいい、と考えてはいけません。会長がいるから会長が考えてくれるだろうと、こんな人任せな教会がある限り、高知の教会は決して新しく生まれ変わる場になることはありません。上がいなくなったら、別の上の人が来るだろうと考える、これは間違いなのです。
 今、1人1人に霊が降ります。1人1人に役割が与えられます。どんな役割をみなさんがするのでしょう。今日のミサが終わるときに、必ず決めて帰ってみて下さい。私は病気がちで何もできないという人がいれば、祈るという役割があります。私は青年で力みなぎっている、あなたの青春の力を全部出さないといけません。あなたは熟年になって、物事を考える力がある、教会の中枢で物事を考えていく役割を持っております。自分の家庭にあって主婦の役割があるでしょう。子供は子供としての自分の役割があるでしょう。大事なのは1人1人がこのミサに与って出るときに、その役割をきちんと意識して出ていくことです。
 幸いなことに、今日堅信者がいます。聖霊は司教の按手によって、この人たちの上に降ります。考えてみてください。この私のつたないこの手、この按手によって、聖霊がこのお聖堂一杯に満たされます。信じていますか。この按手によって、この按手を受ける人が、中から聖霊によって変えられていく、新しい人に生まれ変わる、信じているでしょうか。形だけの按手だと思っているでしょうか。教会はそんな形式ではありません。その本質を生きる、大事な意味をしっかりと理解して生きる、それが教会なのです。教会ということを、今日はとてもよく考えさせてくれております。
 カトリック教会には、その意味でいつも司祭がいます。司祭というのは神様を呼び戻す力を持っております。ミサの中で、司祭が「聖霊来てください」、「ここに供えられたパンとブドウ酒がキリストの体と血になりますように」、「キリストの体」と司祭が言うときに、そこにキリストの体があります。イエス様がそこにいるのです。信じているでしょうか。私たちの信仰とはこんなものなのです。すなわち、私たちの自然の力を超えている神の力がここにあるということを信じて生きようとする、これが私たちのカトリックの信仰です。だからこれを信じている熱心な共同体からは、必ず司祭が生まれて参ります。これは歴史が証明していることです。司祭の役割をしっかりとわかっているからです。高知の教会もその問題すなわちカトリック教会、司祭という問題も、ひいては考えるようにお願いしたいものだと思います。

 教会の誕生と同時に、内向きの、自分たちだけで集まって良しとしている教会は存在しません。聖霊が降ったその時から、教会は外にあふれる力となります。私たちは現代社会に挑戦しないといけません。現代社会の問題に鈍い信仰者は、信仰を持っているとは言えません。私たちは現代社会に挑戦しないといけません。正しい戦争があるという理由で、たくさんの血を流すのでしたら、声を上げないといけません。「死んではいけない」ということ、「殺してはいけない」ということ、抵抗することができない子供を自分たちの都合で処分していくことに声を上げないといけません。「命が大事なのだ」と言わないといけません。何が何でも延命術でもって、人間の尊厳をなくしていく医療の現場に対しても、私たちはちゃんと挑戦しないといけません。試験管で子供を扱って恬として恥じない、いのちの分野に人間が自由に入っていけると信じる考え方に、私たちはやはり挑戦しないといけません。同じように女性の尊厳、子供の尊厳、これらのものを踏みにじっていく現代社会に対して、私たちは「違う」と表明しないといけません。一つ一つの命に対して決して犯してはいけないと、声を上げていくことをしないといけません。
 これが教会なのです。自分たちの教会で、教会維持費がどうだとか、自分たちの共同体でこんなお祈りをしたからとか、そういうことではないのです。現代社会の中に生きている人に、私たちはどんなメッセージをあげるか、これがとっても大事な課題になって参ります。

 社会の中では私たちと同じように、いのちの尊厳とか、人間の自由とか、こういうものに目覚めて、よりよき社会を作ろうとする人たちが私たちの周りにたくさんいます。私たちはその人たちと一緒に、現代社会の中に働いていかないといけません。教会だけが、その仕事をするわけではありません。大きな広がりの中で、私たちの教会があるのです。この高知市の中では、少ない信者の教会かも知れません、でもその高知市の中で偉大なる力を持った教会になりえます。考え方を広めることです。キリストの言葉を本当に広める、こういう生き方をすることこれが大事なことだということを考えさせる、これが今日祝う聖霊降臨祭です。どうぞ、こんなことを考えながら、教会を生きるということを決意してみてください。

 繰り返します。なんとなく、のほほんと今日のごミサは出てはいけません。きちっと自分の生き方を決意して出るようにお願いしたいと思います。

    ※司教様チェック済