高松司教区司祭叙階式説教

2005年6月12日
  於:桜町教会

 みなさん、この方はまもなく司祭団に加えられます。そこで、この兄弟がどのような奉仕の務めを行うために叙階されるのか、ともに考えてみましょう。この方は最高の師であり、祭司であり、牧者であるキリストに仕え、キリストの奉仕職によって、その体である教会は神の民、聖霊の神殿としてこの世で絶えず築かれています。この方は福音を述べ伝え、神の民を聖化し、司牧し、特に主の奉献による神への礼拝を司式するために、司祭に聖別されます。このすべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストの真の弟子であることを示してほしいと思います。

 さて、司祭に叙階されるルイジ・シメオニさん、あなたは主であるキリストにおいて、司祭として教え導くという聖なる務めに携わる者となります。自分自身が喜びを持って受け入れた神のことばを、すべての人に分け与えてください。そして神のことばを黙想し、読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するよう心がけてください。そしてあなたの教えが神の民の糧となり、日々の行いがキリストを信じる人々の喜びとなって、ことばと模範を通して神の家である教会を築いてください。
 また、あなたはキリストにおいて、人々を聖なるものとする務めを果たす者となります。この奉仕職によって、信者の霊的奉献はキリストの奉献に基づいて完成されます。キリストの奉献は、あなたの手を通して、信者と共に祭壇の上で秘跡として祭儀のうちに捧げられるのです。ですから、自分の行うことをわきまえ、それを生活の中で活かし、主の死と復活の神秘を祝う者として、自分自身あらゆる悪に対しては死んだ者となり、新しい命のうちに歩むよう、努力してください。
 あなたは洗礼によって人々を神の民に加え、赦しの秘跡によってキリストと教会の名の下に罪を赦し、聖なる油によって病者を助け、聖なる祭儀を司式します。また神の民と全世界のために感謝と願いを込めて、日々定められた賛美の祈りを捧げます。こうした奉仕の務めを果たすとき、あなたは自分が神に仕える者として人々の中から召され、人々のためにたてられたということを思い起こしてください。そして自分のことではなく、キリストのことを考えて、永遠の祭司キリストの務めを真の愛のうち喜びを持って果たしてください。
 最後に頭であり、牧者であるキリストの務めを果たし、司教と心を合わせ、司教に従って、信者たちが一つの家族になるよう努力してください。こうして、信者たちをキリストによって、聖霊のうちに、父である神のもとへ導くことができるのです。そして、仕えられるためではなく仕えるために来られ、失われていたものを探し求めて救いに導くために来られた良い牧者キリストにならって生活してください。

 今,司教の按手により聖霊が下り、司祭として聖別されます。これにより、司祭は司教の祭司職に与るのです。これにより、司祭は単に神に捧げられた人という意味とは別に、司教とつながっている人を意味しています。司教は使徒伝来の按手を通して、イエス・キリストまでさかのぼる権能を有しています。この権能を通して、自分の司祭職に司祭たちを与らせます。これはカトリック教会の伝統であり、カトリック教会のカトリック教会たる所以です。
 司祭はまた、人々のために捧げられた人という意味合いがあります。いけにえを捧げ、礼拝を司式します。何よりも秘跡の分配者です。聖なる儀式をすべての人々のために執り行い、すべての人のために秘跡を行います。「すべての人のために」、大切な命令です。
 この中で、司教への従順ということが誓われます。この従順とは何を意味するでしょう。教会法によりますと、「教えのこと、祈り・典礼のこと、司牧方針に関して司教が出す方針に従うということ」を意味しています。自分の考えること、やることが司教と違うのであり、司教の方針を受け入れないというのであれば、教区の司祭として働くのは不可能に近いと私は考えます。従順とは盲目のことではありません。司教を通して示される神の思し召しに従うということを意味しています。
 同様に、司祭はすべての人のためにあるということです。自分が育った環境や感性が違うでしょう。しかし、それによって偏った司祭であってはいけません。司祭はすべての人に開かれていないといけません。もし、司祭が優先することがあるとすれば、現代社会の中で一番弱いものを選ぶ、これが大事なことです。
 私は今日の叙階式にあたりまして、自分の好みの従順ではなく、司教の意向に心底従う司祭であるということを誓っていただきたいと、芯から願っております。なんとか司祭になって自分の人生を今からやっていくということでは、だめだということです。

 今、日本の教会は試行錯誤しながら、新しい刷新に向けて歩もうとしております。これは挑戦であり戦いです。現代社会に向けてメッセージを与え続ける教会として、今、生まれ変わらないといけません。内向きの、単なる教会のことに終始する、そういう教会であってはいけません。もっとダイナミックであり、もっと現代世界に人としての生き方をアピールする、こんな教会にしていかないといけません。その先頭に立つのが司教です。そして、それに従っていくのが司祭です。常に現代社会を目の前にして、この現実の前にどのように生きるかを、司教と共に考える司祭であってほしいとこの叙階の日にあたって、ルイジ・シメオニ神父にお願いしたいと、私は心から思っております。

     ※司教様チェック済