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このサイトはトップページに記載のあるとおり,桜町教会広報委員会の支援を受けて私が個人的に運営しており,スペースはHOLYRING様の御厚意で使用させていただいている。

その桜町教会広報委員会の柱であった大浦さんの突然の帰天から既に2ヶ月半が経過した。6月13日16時ごろ携帯に連絡を受けたときは何のことかしばらくわからなかった。耳に入る情報を頭が受け付けなかったのだろう。電話を切ってからしばらくして目が点になっている私に同僚が声をかけてくれた…。

大浦さんには子供の頃からお世話になっている。ここ数年は特に,典礼等教会についていろいろなことを教わったり,ささやかながら事務の手伝いをさせていただいたりしたし,これからもきっと親しくしていくのだろうなと考えていた。まさか,こんなに急にいなくなるとは思ってもみなかった。もっといろいろ教えてもらえただろうし,手伝いもできただろうし…くやしい。



広報委員会

私は委員長ということで役員会に出席したりしているものの,細かいところは大浦さんにおまかせ状態であった。広報誌「いずみ」の作成,懸案の「結婚式パンフレット」「名簿のデータ整理」etc...。何とか気を取り直し6月末に委員会を開き「結婚式パンフレット」について図案やコピーを検討した。(実はこの集まりは,亡くなった翌日6月14日に予定していたものである。この数日前の夕方,教会に行ったとき大浦さんが非常階段のところでたばこをふかしていたので「14日ビヤガーデンに行こうか」と持ちかけると「いやー本題がすすまんやろ。宿題もあったなー。しとかないかんなー」と頭を掻き掻きビヤガーデン行きを却下されたのが,直接話をした最後であったと思う。亡くなる2,3日前にパソコンのディスク増設の件で電話したのが声を聞いた最後であった。)その後7月19日に定例の委員会を開いた。とりあえず「いずみ」次号のコンテンツの確認と担当者の割り振りを決めた。なんとか,なりそうだ。

〜そもそも,私が広報委員会の委員長を仰せつかったのは,数年前のある夜とあるショットバーで,大浦さんから「おまえはパソコンが使えるし,広報委員長やってくれんか」と言われたのがきっかけである。しばらく教会の手伝いもしてなかったような気がしたので引き受けたものの,実際は大浦さんに,おんぶにだっこ状態だったのだ。教区事務所と小教区事務所が分離した際,大浦さんから「いそがしなるからなー。今までみたいにはできんかもな」と言われ,前々号の「いずみ」から最終原稿に近いものを私が作成することになったところだった。〜

一部遅れた原稿があったものの,委員会のメンバーの協力でなんとか業者への原稿渡しの期日は守られた。来週の日曜に出せるぞ,次は結婚式のパンフレットだ。


26聖人巡礼ウォーク

2001年2月11日ミサ後,怪しげな集まりがカトリック会館で始まろうとしていた。二人の子供を連れて話だけ聞きに行ってみた。そこにも大浦さんはいた。京都から長崎まで10年かけて少しづつ歩こうという企画である。発起人のメンバーはそうそうたる顔ぶれである。これは,外れのわけがない。参加することにした。(翌週貼り出されたポスターには発起人としてなぜか私の名前も付け加えられていた。)

前回までに15回,既に岡山県まで来た。大浦さんが歩いたのは14回まで。ただし,ただ巡礼に参加したわけではない。企画から当日の運転手まで〜毎回きちんとした行程表を作り,ルートを読み,泊まりがけの時は人一倍酒を飲み〜まさに八面六臂の活躍であった。

前回第15回はそんな大浦さんのいない初めての巡礼ウォークだった。中越姉がお骨を借りてきていた。私は写真を用意した。あの大きな後ろ姿をみることは無かったが確かに一緒に歩いたと思う。次々回は岡山市手前で交通の便も良いので,いつものメンバー以外の方もお招きしての巡礼となる。最後になった巡礼後の反省会で,大浦さんの企画では,野外ミサやそれに引き続きバーベキューパーティーなんてのも出ていたような気がする。長崎に至る長い道のりの中でも一つの大きなポイントとなる。なんとか盛り上げたい。



大浦さんにお世話になったことを,何か記しておきたいと漠然と考えていたが,なかなか考えがまとまらなかった。広報委員会と巡礼ウォークの二つだけ書いてみたが,もちろんこれだけではない。教会は家族と聞くこともよくあるが,まさに兄とも思えるような存在であった人物である。二人の息子もずいぶん大切にしていただいた。本当に悔しい限りである。


2003.8.26 長谷川