讃岐の殉教者
    アントニオ石原孫右衛門親子 スワレス神父レポート

これは,イエズス会員スワレス・ミゲール神父が,1992年頃まとめられたレポートからの抜粋です。レポート全文は,桜町教会事務所にあります。

  キリシタン時代に日本で働いていたイエズス会宣教師は,宣教活動に関する年次報告書を毎年ローマにあるイエズス会本部に送付しておりました。1617年の年次報告書の中に,殉教者石原孫右衛門に関するポロ神父自筆の報告書があります。その報告書の内容は詳細でかつ忠実なものです。本文はポルトガル語で書かれていますが,その中に殉教に立ち会ったキリシタンたちが証人として記録した日本文があります。それをポロ神父はローマ字で忠実に書き写して自分の報告書の中に納めております。
 私が初めて石原孫右衛門の殉教を知ったのは上智大学教授でキリシタン史研究家であるイエズス会員シュッテ神父から"日本イエズス会の歴史入門"の講義を聞いた時でした。その後,ローマ・グレゴリアン大学教授であるイエズス会員ロペス・ガイ神父,上智大学図書館キリシタン文庫責任者であるイエズス会員尾原悟神父と秘書筒井氏のご協力を得てローマにあるイエズス会本部古文書館に保管されているポロ神父の自筆報告書の写本を手にいれることができ,それを日本語に翻訳し注釈をつけてくださったのはドミニコ会員ホセ・デルガド神父と鷺淵啓祐氏です。これらの方々に厚くおん礼申し上げます。最後になりましたが,私のこの計画を激励してくださった高松教区長・ヨゼフ深堀司教さまに感謝申し上げます。

(以下は,ポロ神父報告書中のローマ字日本文を現代語に翻訳したもの)
 讃岐国(香川県)高松における殉教者アントニオは備前(岡山)の出身で,石原孫右衛門という名前です。もと武士でしたが,関ヶ原の戦いの後,町人になり,かなりの財産家のようにお見受けしております。
 去年,イエズス会のホアン・パブチスタ神父がキリシタンたちを訪問するために讃岐に来られましたが,アントニオはその時不在であったことを非常に残念に思い,神父の後を追って播磨国(現在の兵庫県西部)まで海を渡り,ゆるしの秘跡を受けました。日頃はありふれたキリシタンのように思われていたが,その事があってから後はますます信心に燃えて,主日の義務,祈り,その他のことを注意深くおろそかにする事はありませんでした。特に,キリシタンは使徒信経にある12ヵ条の信仰奥義を知らないなら来世の救いは望めないと告白の時に神父から教えられ,これは一大事だと思い,今までよりも一層告白する機会を大切にしようと心掛けました。これを勧めるために自分と同じ考えの人々をたびたび集めて話をし,教えを聞き,神へのご奉仕を絶やすことなく努めているのを見た人々は時折目立たぬようにしなさいと意見しておりました。しかし彼は自分がキリシタンであることを殿は知っており心配する事はないと常々話しておりました。
 その様子を町の十人組の者が讃岐の殿に告発したので,6月11日に「行って逮捕せよ」の命令が出て,すべての財産が没収され,殿の前に引き出され,さらに牢獄に囚われの身となりました。親類縁者はこれを悲しんで日夜牢獄を訪ね「なぜこんな始末になったのか。大切な家督を捨て,命すら失おうとしているではないか。二人の子供の事をどのように考えているのか。はやく信仰を捨ててしまいなさい」とさまざまに意見をしました。アントニオは「ご意見は有り難く思いますが,常日頃からよく考えた上でのことであるから,信仰を捨てよという意見は全く無益な事だと思う」と言って,もう二度と返事をしませんでした。またキリシタンたちが牢獄を訪ね「殉教者になるにしても痛梅の心が大切だと言われている」と伝えると「そのことですが,どうぞ祈っていただきたい」と頼みました。
 さて,14日夜に処刑と決まった事を知ると,彼は女達や下男たちに今までの過失や欠点について詫びを述べ,覚悟を決めた様子でした。日が暮れて月が出ると,介錯人が来て彼に縄を掛け牢から引き出すと,彼は大きなロザリオを首に掛けて処刑場に向かいました。その時,玄蕃という奉行が言いました:「松明を高くかかげて道を照らせ。孫右衛門は今まで転ばなかった(信仰を捨てなかった)のだから,今になって転ぶことがないように」。アントニオは「それこそ一番気にしている事だが,全く嘘偽りのない事だ。その通りでありたい」と答えた。
 また一人のキリシタンが背後から別れの挨拶をすると,アントニオは振り向いて「どうぞお大事に」と言いました。道すがら親類縁者に別れの挨拶をし,それから路地を通りながら大声で祈りを唱えつつ処刑場にやってきました。すると生駒左衛門之介という奉行が「今こそ信仰を捨てなさい。ただ一言捨てると言いなさい。捨てると言うなら,讃岐の殿の前はうまく取り計らって進ぜよう」と言いました。アントニオは「たとえ口先だけでも捨てると言うべきではない」と答えて,南向きにひざまずいておりますと,井上若狭という奉行が「お前が向いている方角が違う。西向きになるように」と言うと,アントニオは答えて「あなた方が行かれる場所と私たちが行く場所とは違いますので,処刑に際してどちらを向いていてもかまいません。このたびはこのままで処刑してください」と言いました。
 さて,「常日頃,私に目を掛けてくださる主よ,どうぞ私と共にいてください」と祈った後,皆を呼び寄せ「皆さん,キリシタンにならなかったら救いの道はありません。そのことを心に留めてください」と申しました。親類縁者の中に信仰を捨てた者が一人おりましたが,その人にとって重大な事,棺を埋葬する場所について詳細に言い残しました。
 また自分の首を斬るように依頼したい人がいると言ってその人の名前を呼んだが,その人は処刑場に来ていませんでした。それでその人を呼びに行こうかと尋ねると「いや,いや,呼んでくるほどのことではない。だれでもよいから頼んでほしい」と答えました。それからしばらくの間天を見つめて黙想していましたが,黙想の後「さあ,首を斬ってください」と言いながら首を差し伸べ十分に下げました。最後の時に遺言した親類縁者の山下が懇ろに彼の遺体を埋葬しました。また首は墓の近くの獄門台に掛けられていましたが,二人のキリシタンが夜ひそかに持ち去りました。元和三年六月十四日,西暦1617年のこと。行年42歳で神のみもとに帰られました。
 このアントニオ孫右衛門にはフランシスコと呼ばれる息子と一人の娘がいました。子供たちが幼少の頃からキリシタンに改宗するように神に向かって懸命に懇願していました。御絵の前に膝まづき,祈りや黙想をする時はいつもフランシスコを呼び寄せて自分の側に座らせ,深く頭を下げ,胸を打ち,合掌して神に感謝することを学ばせたので,キリシタンになりました。アントニオを入牢させるために監守が家に行った時,フランシスコは不在でしたが,彼を呼び寄せ,御絵に向かうように命じると,フランシスコはいつものように胸を打ち,合掌して感謝の祈りを唱えている様子を監守たちが見て,「なるほど,キリシタンは幼少の時からこのように躾を受けるのか」と感嘆して口々に話していたと聞いております。
 アントニオのことについて家来たちが讃岐の殿に申し上げたことの中に珍しくも孫右衛門は最後に入浴したと聞いております。
 さて,十五日の朝,左衛門之介が讃岐の殿の前に出仕した時,殿が「左衛門之介,孫右衛門の息子を処刑したか」と尋ねました。まだ処刑してはいなかったのに,「処刑しました」と嘘の返事をしました。讃岐の殿は「もしまだ処刑していなかったなら,左衛門之介に切腹を申しつけようと考えていた」と言われた。左衛門之介は「すでに親子とも獄門に掛けております」と嘘をつくと,讃岐の殿は「では玄蕃に確かめて見よう」と言うと,「どうぞ尋ねてください」と答えました。そこで使者が玄蕃の所へ遣わされました。この間の事情を知る使者はやがて立ち戻り,親子共々獄門に掛けられていると報告しました。左衛門之介は驚いて家老を呼び寄せ,早速孫右衛門の息子を処刑するように,そうでなければ我らに不都合が及ぶやも知れぬと急がせました。
 フランシスコの母は事の成り行きに感づき,四歳の子であるから懐に抱き少しの間も離そうとはしませんでした。回りの人々は何とか騙して子供を取り上げようとしたが,どうすることも出来ませんでした。奉行左衛門之介はどうして遅れているのかとたびたび催促の使者を遣わしました。介錯人たちが口先ばかりでは取り上げることが出来ず,とうとう力づくで頭を掴まえ,抱きかかえて処刑場まで連れて行きました。その時フランシスコは「お父さん,お母さん」と激しく泣き叫んでいました。アントニオの親類縁者が近づいて「お前は孫右衛門の息子ではないか。どうして泣くのか。孫右衛門殿がおられる素晴らしい天国に今から昇るのではないか」と天を指さして諭すと,フランシスコは奇跡的に泣きやみました。
 さてその後,一丁ほどの道程を行く間に深く眠ってしまいました。そこでフランシスコを仰向きにベンチの上に寝かせ,早く介錯をと催促すると,介錯人は大刀ではなく小刀を抜き,側に置いて「私たちは夜更けまでこの子の処刑を待ったのだ。なんと痛ましい事だ。なぜこんな子供を殺さなければならないのだ」と言って,しばらく嘆きました。見物の人々も皆泣きました。その後,介錯人は「こうは言っても主人の命令に背くわけにはいかない。だいぶ夜も更けてきたから思い切って処刑しよう」と刀を取り,目を閉じてフランシスコの首筋に押し当てると,「ワッ」と泣いたので介錯人は一丁ほど逃げてしまいました。その後はアントニオの親類縁者が集まり,刀で頸動脈を切ってとどめを刺しました。このように行年四歳で,父親と同じく神のみもとに行きました。
 六月十五日の日暮れ頃,美しい雲間にはっきりと十字架が現れました。アントニオの話を聞いていた人々,改宗者は男女を問わず家の外に出,それを見て感嘆し,キリシタンなら来世において救われる事は疑いないと皆が話し合っていました。
 同じく十六日の日暮れ頃,三日月が二つ南の空に現れました。一つはいつものように,もう一つは逆様に出て,次第に二つが一つになって丸くなりましたが,それからいつもの通りの月になって光輝き,だんだんと二つの月は消えてしまいました。この現象を皆が確かに見届けており,備前の国においても多くの者が見ました。
 同じく六月下旬に九つの月が現れました。讃岐の殿と年寄衆が一緒に談話している時にこれを見て,キリシタンを処刑したのでこのような不思議な事がおこったのであろうと話され,またこのような不思議な出来事は初めてであると一同驚かれたと確かに聞き及んでおります。ここに書き記した事はすべて嘘偽りではございません。主である神がよくご存じの事です。
十月二十三日
進上 ソーチ・ヨハノ様 
   (呈上)                香西ヨハノ
                       松本仁左衛門イナチオ