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聖母の被昇天について

 「8月15日は何の日ですか」と聞かれたら、一般の大多数の日本人は「終戦記念日」とか「お盆」と答えるのではないでしょうか。しかし、カトリック教会ではこの日は「聖母の被昇天」の大祝日として祝われます。私たちの桜町教会の正式名は「聖母の被昇天教会」で、8月15日は特に盛大に祝われます。
 それで、この「聖母の被昇天」について考えて見ましょう。教会の伝承によれば聖母マリアは主イエス・キリストが天に昇られた後、しばらく12使徒と一緒に地上に生活されましたが、やがて聖霊の力によって天に引き上げられたと言われています。
 この出来事をカトリック教会では「聖母の被昇天」と呼んでいるのです。イエス・キリストが天に昇られた出来事は「主の昇天」と呼ばれていますが、聖母の場合には「被昇天」と呼ばれているのはなぜでしょうか。
 「被」には「こうむる」とか「受ける」の意味があります、つまり、「被昇天」は自らの力によらないで、誰かの「力」によって「天に昇らせられた」という意味があるのです。それに比べて「昇天」は自分自身が持っている力で昇っていかれたという意味なのです。ちょうどそれはエレベーターで上に行くのとロケットエンジンで上に行く違いのようなものだと言えるかもしれません。聖母は普通の人間だったので聖霊によって天に上げられる必要があったのです、しかし、イエスはその必要がありませんでした。
 「聖母が普通の人間であった」ということを一般のカトリック信者はあまり意識していないのではないかと思われます。普通の未婚の女性としてイエスの母となるように神から選ばれ、彼女はその選びに対して常に従順でした。その従順に対して神は「罪を犯すことがない」という恩寵を授けられましたが、それは彼女が超自然的な力を獲得したということを表しているのではありません。ただ彼女がガブリエルによって受けた「お告げ」に「そうなりますように」と答えた従順さに神は聖霊を遣わして彼女が罪を犯すことから守られたのです。
 この「聖母の被昇天」の祭日にあたって「普通の人間」である私たちは、聖母に働かれた聖霊に心を留め、同じ聖霊が罪びとである私たちに働くように、聖母と同じように私たちに救いをもたらす神のみことばを「はい」と言って受け入れることができるように聖母に取り次ぎを願いましょう。

2002年7月23日
高松教区司祭
佐々木 光雄神父