豊臣から徳川に至る禁教時代,日本の各地で信仰のために処刑された殉教者が数多く生まれました。この地でも1617年,アントニオ石原孫右衛門とその子フランシスコが殉教しました。殉教地は当教会から東へ約500メートルの御坊川沿いにあった刑場で,7月16日に父・孫右衛門が41歳で,翌17日に息子フランシスコが4歳で処刑されました。生駒家第3代正俊の治世のできごとです。
父アントニオの殉教は1617年7月16日(邦暦元和3年陰暦6月14日,行年41歳)息子フランシスコの殉教はその翌日(行年4歳)でした。生駒藩3代正俊の治政のできごとです。
アントニオ石原孫右衛門は備前の熱心なキリシタンで,身分は武士でした。1600年の関ヶ原の戦いの後,商人となり讃岐の高松に落着きました。宗教の実践に非常を熱意を燃やし,自宅にキリシタンたちを集めては彼らを励まし,常に霊的書物を彼らに読んできかせていました。
折しもキリシタン弾圧の中,身を守ることに慎重であるようにと,人から注進をうけましたが,耳をかさず,ついに大名の命により捕縛されました。
「夜になって,父は刑場に連行された。一人の卒が,『転ばないように明かりをつけろ。』と言った。アントニオは答えて,『おゝ天主様,御身が私を転ばせ下さらなかったことを感謝致しまする。又私が今後転び申さぬよう,お助けを願いまする。』と言った。一人の異教徒が,彼が南の方に向けられていたのを,それは西方に向けられて死ぬ日本の習慣に反すると注意した。アントニオは,『如何にも左様,さればお前さんの極楽は西方にある。』と言った。」
アントニオは斬首されその首は人目にさらされ,次のような立札が付けられました。---このものは,キリシタンにして,天下のおきてに反するもの,よって讃岐の大名の命で殺されるものである。元和三年六月十四日---
翌日「彼が立派に育て,我々が真面目に信じることの出来る幼いフランシスコが,母の腕からもぎとられて,よからぬ場所に連れていかれた。子供は,従者の手の中で泣き出し,父母の名を呼んだ。そこに居合わしたアントニオの朋輩の一異教徒は,子供に向かって,『お前は,アントニオの子じゃないか,また直きお前,天に行ってお父つぁんに会えるのが分からんのか。』と言った。子供は,目を上げて天を見上げ,泣き止んだ。間もなく,彼は寝入った。軽卒は,この子を静かに地べたにおいた。斬手は,酷たらしい役を果たす支度にかかっていた。ところがどうしてもその気になれず,彼は眼にいっぱい涙をためて逃げ出した。もう一人の異教徒が懐剣をとり,子供の胸を続け様に3度刺した。」
このような状況から当時の刑場で処刑されたらしく,その場所は,桜町教会から東に少し行った御坊川沿いであったようです。
参考文献
讃岐切支丹諸考(著者:近藤春平)
四国キリシタン史(ルイス・マカリオ)
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